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無用の用

日本人の精神性(2)

Posted on 2013-07-18

 前回に引き続き、日本人の精神性を示すと思われる例示をします。

「無用の用」的なもので集団を維持する心

 私の友人の竹村聡一郎君(株式会社コヨーテ)のコラムで、昔九州の炭鉱で働く人の中に通称「スカブラ」と呼ばれる人がいたということを読みました。

 「仕事を好かんで、ブラブラ」が語源という説もあるようです。要は笑わせる役です。重労働に耐えながら働く炭鉱夫の集団に冗談など言いながらその場の雰囲気を作っていた人の話です。

 効率化のためにこの人をその集団から外したところ、そのグループの生産性がガクッと落ちた旨の報告もコラムの中に記載されていました。

 これを読んで私は「さもありなん」と、これまでの自分の主張の正当性にほくそ笑みました。日本人の集団の精神性が表れている事例と考えます。集団としての雰囲気とチーム力を大事にするための「無用の用」です。

 私も経営経験で同様なことに遭遇しました。経済合理性をとことん推し進めた結果、以前より生産性が落ちる結果になったことがありました。

 サービスを提供する集団においては、経済合理性以外の人間の心の部分への配慮が不可欠でした。人のモラールが重要なのです。

 私は、このために、ルーチンの仕事の仕方に多少問題を持っていたとしても、場全体の雰囲気をいっぺんに変える能力のある人をチームの中に入れることで、どれだけチーム全体の生産性が上がったことか。この人の人件費を賄って余りある改善をみることができました。

東洋的死生観

「東洋的には、死生といい栄枯といわれまするが、ただ一つ気が消えたのが死であり枯であり、一つの気が満ちたのが生である。」(佐藤一斎、「言志四録」)

「生も一時のくらいなり。死も一時のくらいなり。たとえば冬と春のごとし。冬の春となると、おもわず、春の冬となるともいわぬなり」(正法眼蔵)

 日本人の精神性とも関係があります。人生の生死のサイクルや死生観を言っています。

「散る桜 残る桜も 散る桜」(良寛?)

「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」(「はちすの露」、貞心尼)

 などそれぞれの辞世の句と言われています。日本人の精神性を表した秀逸作品です。私もこの気持ちが少し分かる年代になりました。

青年団と掟、集団の知恵と独り立ち

 忍耐と鍛錬を修練する「場」があったことを司馬遼太郎氏は、江戸後期に北海道交易で活躍した高田屋嘉兵衛を主人公にした「菜の花の沖」の中で淡路島の「若衆宿」のことを書いています。

 縦社会で上の人の指示に従う村の共同体で、村のおきてを破る者は内部告発されます。その指示をどう実行したらよいかを自ら考える共同体です。

 もちろん、今話題になっている「しごき」的部分があったことは否めず、「若衆宿」に100%賛成するわけにはいきませんが、結果として、成人として徹底して「独り立ち」するための指導をする部分は賛成です

 司馬氏は、「街道をゆく」を書くために訪れた地域では必ず「若衆宿」を確認していたとどなたかが言っていたくらい、一人の独立性に関心を持っていたかもしれません。

日本人の安定志向

 安定を望むのが日本人です。村の共同体の維持を優先します。元来ケンカを好みません。皆がまるく収まることが一番と考える国民性です。

 この流れからすると、成果が残せないと収入が減る成果主義は元来日本人には向かない制度だと考えます。権限と責任をあたえ、自分で解決する能力、村を発展させる思考を身に着けなければなりません。

 このことは、私が常日頃主張する「考える」ことに通じます。「常に考える」ことです。

脳の構造が違う

 ある本でロンドンのタクシーの運転手は海馬が大きいと読みました。海馬が大きいと地理空間の案内を覚えるのが得意のようです。このことは人間の脳は人種によって違いがあることを意味する例です。

 人の意思決定は95%位無意識に行われています。脳で決定した後0.5秒後には実践しています。山道でヘビに出会うと皆驚いて飛びます。無意識の判断の結果です。その後、「ああ怖かった」と。

 脳の認知活動は感覚器官から脳に伝達された情報処理のボトムアップ処理と脳内に記憶された情報に基づくボトムダウン処理の二つにより行われますが、これも無意識に行われます。

 驚くことのは、人種により「脳が違う」ということです。このことが最近知見されたようです。日本人は平均的に不安傾向が強く、また、包括的に全体を捉える傾向が強いようです。不安傾向は、セロトニン受容体を保有する人が多いからのようです。

 セロトニン物質は最近健康商品で有名になりましたが、不安を制御する物質と関係あるとのことです。また、全体像把握との関係で言えば、金魚を入れた金魚鉢を観察する実験を行うと、日本人は全体像を印象強く把握するのに、アメリカ人は、金魚の個別の特徴に興味を覚えるようです。

 日本人のマンガ好きとも関係があるのでしょうか?感性を重要視します。論理は後付けにするクセがあります。先ず全体のイメージを描き、その後にそのイメージを正当化する論理を仕立てあげる特性の一つでしょうか。興味ある部分です。

 脳の構造を知ると、アンケートの主観的、言語的な一般的内観調査は限界で、人の思考を予測できる脳計測との組み合わせを考えるとさらに効果が増します。例えば、何かの商品で顧客に対して「好きですか、Aですか?、Bですか?」と聞き、回答者の脳の反応の強弱を観る調査機器があれば顧客接点はもっと緊密になるかもしれません。

 

日本人の精神性(1)

Posted on 2013-07-11

 実は、前回コラムで紹介した二宮尊徳や上杉鷹山等の生き方に私が賛同できるのは、彼らの経営改革姿勢の背後に深く流れる日本人の精神性のどこかに共感するものがあるからかもしれません。

大和こころ

 これを「大和魂」と呼ぶことがあります。「大和こころ」も「大和魂」も、誰の耳にも良い響きを持ちます。そもそも何でしょう。

 この言葉を最初に使ったのは紫式部であるといわれています。源氏物語の「乙女の巻」には漢才-当時の中国の学問を学んでこそ大和魂は重んぜられるという表現があるようです。

 平安時代に用いられたこの言葉は、漢学に代表される外来の知識人的な才芸や技法に対して、日本在来の伝統的知識、生活の中の知恵、教養を言ったとされます。漢意(からごろも)に対して作為を加えない自然で清純な精神性を言います。

 「大和こころ」は、戦中、戦後は軍国主義的にみられていましたが、これは政治的に利用されただけで、大和こころの本来の精神性の意味は変わりません。

 我々日本人のこころのどこかに日本の伝統を重んじ、二宮尊徳や上杉鷹山のように民のために一身を投げ出すという少し教条的ではありますが、自然で清純な気持ちが潜んでいるのではないでしょうか。私の心にも同様な精神性が潜んでいるように思います。

忍耐と自己鍛錬をする心

 日本人は自己を磨く、そのために耐え忍ぶ性癖を持っています。この過程が自己鍛錬のやり方として象徴的に表現されることがあります。

 自己鍛錬の例は、優れたスポーツ選手の事例が沢山挙げられています。「イチロー」選手など優れた野球選手がバッターボックスに入るまでを見ているとわかります。本人のしぐさや自分のゾーンに入る精神統一などを観察すると、その人の心の一面が見えるほどです。

 あるレベルを超えるための自己鍛錬のから取得した精神統一法だと思われますが、われわれ日本人の精神構造に忍耐と自己鍛錬の仕組が組み込まれているということかもしれません。レベルは違うとしても、私自身も同様な精神構造を共有していると思えることがあります。

鎮守の杜と自然信仰

 田舎にある鎮守の杜を訪れたことがあると思います。一歩足を踏み入れた時の冷厳でな気持ちや畏敬の念、自然への尊敬の心は、私のみならず大半の日本人の中に潜んでいると思います。

 日本の首都、東京のど真ん中に江戸城という広大な自然林が残っていることを我々日本人は何の疑いも持たず普通に思っています。ヨーロッパの首都の真ん中に広場と教会がセットであるのとは大きな違いです。日本人は山川草木あらゆるところに神が宿ると考えています。古来日本人が抱いていた自然信仰と関係があるかもしれません。

 自然界のどこかにいる神への畏怖の念を私も鎮守の杜で抱きます。

 しかもこの時の自然に向き合う姿勢は対決でなく調和です。人間相手でも共存する手法を取ってきました。武力でなく言葉で服従を誓わせ平定する国譲りの記述も古事記にあるほどです。

「おかげさま」という感謝の気持ち

 私自身「おかげさまで」との言葉をよく発します。別に意識しているわけではありません。自然に出るのです。

 心学の開祖、石田梅挙は「先も立ち、我も立つ」と、利を共にする思想を説いたと言われています。「おかげさま」という感謝の言葉、直接何かをしてくれたわけでもない相手に感謝する気持ちは、この辺から生まれたかもしれません。

 「おもてなし」の言葉もこれと関係があるのでしょうか?日本人が非常に大切にしたい言葉と考え方の一つで、「利他」と通じ日本人の底流に流れている精神性の一つと位置づけています。

包み込んで同化させる大きな心

日本では古来海外のいろいろなものを同化してきました。この日本に、百済から仏教が入ってきました。自然信仰の古来の日本に仏教を導入し、そこから沢山の知恵を学びこれを包み込んでしまいました。

 神仏習合です。

 日本の宗教は神か仏でなく、神も仏もいるととらえます。多神教というより汎神教です。英語という言語もジャパニーズ・イングリッシュとして、日本的なものに手直しした部分が相当あります。外国からの知恵も同化させました。

 日本人の精神性の具体的な例として、七福神と風呂敷をあげる人もいます。

 七福神のえびすは日本古来の神様です。毘沙門天、弁財天はインド起源の神様、大黒天はインド由来の神と日本の大黒様が習合したもの、福禄寿と寿老人は道教の神、布袋は中国の和尚と言われています。この神様達の源は違うとしても、彼らを一緒に宝船に乗せて福の神として崇めまつっています。ただし、日本人はなんでもとり入れたわけではありません。儒教はいれましたが、孟子の革命思想は入れませんでした。宦官や科挙も入れていません。

 風呂敷に包みこむにあたってもきちっと取捨選択をしています。欧米各国に行くと、この風呂敷のように、中味に変えて変幻自在に包み込めることの発想の優秀さも感じるところです。これもある種の精神性とみなしてよいかもしれません。

 

「無用の用」のエネルギーを意識的に活用していますか?

Posted on 2012-07-12

 「最近、無用の用を意識している会社が少なくなりましたね。」と、現在高齢者の健康サポートを指導している高橋勝君が呟いていました。組織の活性化には、いろいろな人材が必要なのです。

 成果が出て、その人が目立ったとしてもその原因は様々です。目立ちたがり屋の人は、一時的に成果が上がり収入が増えても、もし次の期に給料が下がったら、たとえ複数年の比較では給料が増加していてもモラールをうんと下げる傾向があります。

 何かの時には抜群の働きをする人材—「無用の用」

  会社内には地道な努力家が沢山います。目立たないだけです。いろいろな環境の影響で月次の目標が未達にもなりますので、目立たないところにも社長が心血注いでウォッチすることです。仕事場、飲み会などあらゆる場でウォッチするのです。人についての「無用の用」の気づきがあります。

 およそ有用で役に立つということは大事なことに違いないと思います。 しかし、「浅はかな人間の知恵で推し量られる有用が、本当の有用であるかどうかを考えさせられます。もう一つ上の、“道”(タオ)の立場から見れば、凡俗の輩の 有用などは取るに足らぬこざかしさ、いや愚かさに思えることもあるのです。」との主旨の内容がウィキペディアに記載されているのを見たことがありますが、なるほどと思いました。

 私は、ガチガチでなく多少余裕をもった人事をしていました。

 凡庸な人から見ると「無用の用」と思える人材も非常に大切にしていたのです。一見無用と見える異質な人材の存在もとても大事にしていました。普段は目立たないのに、たくさんの社員を盛り上げるイベントなどでは人が変わったように張り切り、人心をまとめる才能のある社員を、その才能を見込んで元気がなかった東京の営業に地方から転勤してもらったこともあります。効果は抜群でした。

 この様な社員こそ、意外に深い考えや違う視点に基づいて社員の心顧客の心をひきつけてくれるのです。最初は「能力がなさそう」と勝手に距離を置いていた社員も、彼の違った才能に気づきます。最初は「考えていることがズレてる」と顧客から出入りを断られていたその社員も真剣に対応するうちに顧客に受け入れられ「無用の用」的役割を大いに果たし、一緒に何か新しいことを手がけてくれます。時には、全く違う切り口で課題の解決の糸口を見つけてくれたりします。

プライドを傷つけて、マネジメントが上手くいきますか?

 社員個々人のプライドこそ一番重要なことです。

 2012年3月27日のTV番組で、いわゆるホームレスの特番を放映していました。この中に登場するあるホームレスの男性は、「炊き出しの世話にはなりたくない。」と、アルミ缶を集めて現金収入を得て生計を立てていました。「私にもプライドがあります。」と語っていたのが印象的でした。彼のプライドがある限り、きっと立ち直れると感じました。

 プライドについて考えさせられることがあります。能力的にはもうひとつで、頻繁に上司から指導を受けている男がいました。要は、他の社員より覚えが悪いのです。しかし、人一倍の努力家で、他の人の倍の時間をかけて一つのことを習熟する人でした。その仕事をすることにプライドを感じて対応する人で、彼がプライドをもって仕事をしていることを周囲の社員も知っており、応援の手を差し伸べていました。

 このような人をどうマネジメントしていけば良いでしょうか。クビにする選択肢も、最近のマネジメントスタイルではあるかもしれません。強制的に他の部門へ移動させて、自部門から排除することもできるかもしれません。しかしそれで全体最適になるのでしょうか?

 仕事は一生懸命しています。しかも、プライドを持って。プライドに傷をつけた場合、本人のモラールはもちろん、周囲の社員への影響をどう考えるかです。このことが分かる経営者こそ人の上に立つ本当のリーダーに育つと確信します。

組織に遊びの必要性

 組織的にも、あえて組織の遊びという余裕を意識していました。一見無用な組織があることで、何か新しい取り組みを実施する時に、その組織がものすごいパワーを発揮してくれることが多々ありました。

 CRMを中心とした組織の中に、コンテンツの開発部隊を新設したことがあります。一見、事業としての親和性がなさそうに見えましたが、組織にある種の遊びを持たせたのです。サービスの在り方がどのように生活者に受け入れられるかを直接知るための組織の先兵でした。切り口が違うので、新しいことに取り組む時には競合会社と全く違う発想を提供してくれました。