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人生のゆらぎ

「加算すること」と、「時に、引き算をすること」

Posted on 2014-05-22

本へのコメント

 先週書店に出た私の本、『礼節と誠実は最強のリーダーシップです。』に関して、フェイスブックなどを通じて、皆様から沢山激励の言葉をいただきました。本当にありがとうございます。

 この本の項34、「捨てること捨てないことの判断軸」を中島大希君が引用して、コメントをしてくれたことを思い起こして、今回は少し違う角度からこのことに関連したテーマについて述べてみます。

 「捨てること」、「捨てないこと」の判断にいろいろ悩んでいる方々、このコラムが多少の参考になれば幸いです。

 

艱難辛苦

 「人の一生は、重きを背負うて遠き路を行くが如し。急ぐべからず」。この言葉は、徳川家康公の遺訓第一条にあると言われます。苦しみや辛いことを耐えて乗り越え自ら解決することではじめて人生の楽しみがあると、私は解釈しています。

 この通りだとすると、生まれて老いて死にいたるまで、病をはじめとして苦しみの連続で、沢山の逆境に遭遇するのは普通のこと。艱難辛苦の連続です。皆、この苦境をどう乗り越えるかに算段し、努力しているのが現実です。人は一見順風満帆そうに見えても、いろいろな逆境を乗り越えその後の楽しみを全身で感じたいと、皆、毎日を一生懸命生きているのではないでしょうか。

 

足し算と引き算の年代

 こうだとすると、逆境があるのが当たり前。

生まれた時はゼロの状態で、そこから人生の中で一つずつ何かを加算。このことから、我々は足し算に慣れ過ぎているかもしれません。ところが、足し算をし続けていきながらも、何かの苦難に遭遇して加算できないことが、常に発生します。そのような時でも私の年齢になると、生まれた時の状態の戻ると思えば、すべて気が楽です。引き算が重要になることにやっと気づくからです。30代、40代で働き盛りの頃とは違い、60代、70代になってやっと引き算、捨てることの意義に気づく人も多いと思います。否、取捨選択の言葉があるとおり、このことがいつの年代でも重要なのに、それを忘れていたことにこの年代で初めて気づくからかもしれません。「得ること」に忙しすぎて、引き算のことをすっかり忘れていたのです。

 常に足し算で計算するから足すことに苦心惨憺し、足すものが無くなり何かが減ってくるとそれを心配し、ある種の逆境に感じることが多かったのにやっと気づきます。

 私もこれまでに、いわゆる逆境に沢山遭遇しました。例えば、親会社のあるリーダーとの確執、第三者割り当て増資の苦渋の決断、ファンドの株主利益優先主義に対する戦略の違いからくる軋轢とファンド側でのいろいろな工作への対応等、心を痛めることが沢山ありました。足し算の計算に狂いが出てきたからです。未だ開示できないことが多いのですが、半沢直樹よりも凄いストーリーになるものばかりです。もちろん、ここにのべた事以外にも、同じような逆境を沢山体験しました。

 

加算すべきことの一番目

 私と同様な、または更に過酷な逆境体験をされた方々がいるかもしれません。そこまででなくとも予期せぬ左遷、降格等はほとんどの人が経験され、ビジネスマンとしての悩みに直面しているかと思いますが、これも考え次第です。

 ビジネスマンにとって、信用、信頼を加算してこそ成功であるという考えを持つ限り、一生を長い目で見ると、ポストダウンや左遷など本来大したことではありません。加算すべきことの範疇には入りにくいことのレベルです。

 仮に、信用と引き換えにそのポストを手にいれたとしたら、心の底では忸怩たる思いが一生残るでしょう。信用、信頼さえあれば天は助けてくれます。これこそ「加算すべきこと」の一番目だと考えます。お天道さんは良く見ています。人生を泳ぐ術には長けていない人がいるかもしれませんが、安心してください。信用や信頼を大事にする人には、いつか天が恵みを注いでくれます。

 また、他人のせいにしない心を持ってください。むしろ逆境の原因は自分にある、もしくは「引き算すること」を思い起こし、逆境など初めからなかたのだと思う懐の深い心の働き方に努力することも必要となります。人の心は、どうしても個別の部分面にとらわれ易いので、その事象が全てと思いやすい。このような時には、ある事象のみが目立ち、視野が狭くなっているかもしれません。このことその事象のみで自分自身で自らの動きを制約しているかもしれません。一旦、心の深呼吸をして、気分転換をして心を大きく開いてください。自らの心を自由して発想、行動してみてください。

 「得ること」の固定的観念を取り払い過去のことに拘泥せず、将来に向かって今を精一杯前に向いて生きる。むしろ、将来の夢を語るような機会を持ってください。過去への執着を捨てれば、苦境と自らが思う畑の中に花を咲かせる余裕も生まれるかもしれません。今を一生懸命生きることを考えるようになります。

 

 

鴨長明(方丈記)と吉田兼好(徒然草)の生き方、人間(2)

Posted on 2012-12-27

二人の共通点

 鴨長明と吉田兼好の晩年の生き方の続きです。二人には、現実に生きる人間の観察において共通点が見られます。

 鴨長明のことは先日このコラムに書きましたので、今回は吉田兼好に焦点を当て二人の共通点を見てみます。

 第一に、長明は平安時代を見限り鎌倉時代に期待しましたが期待外れ。兼好は鎌倉時代の終わりを予見する眼力を持っていたと思いますが、かと言って室町時代に期待したわけでもなさそうです。いずれにしろ、二人とも「世捨人」の立場で随筆を著していますが、厭世者の彼らの書物など、当時は誰にも興味を持たれなかったと想像します。

 第二に、二人とも世の無常感の権化です。「徒然草」の全段に兼好の無常観が表現されています。

 衝撃的な記載があります。「恋しき物、枯れたる葵」の部分です。

 葵は、私が過去フェイスブック上にこの花の写真を載せたほど私も大好きな花のひとつで、春から夏にかけて見かけます。

 私も花が大好きです。庭の花、林の中の花や雑草も大好きです。しかし、枯れているよりやっぱり生きている花の方が好きです。

 スッとまっすぐ生育し上の方から花が枯れていくのが通例で、葵の花が枯れると茎のみ棒状になります。この枯れ木(多分、賀茂祭が終わったあとの葵かも)の棒を見て「恋しき物」と思う兼好の心境。このことを、私も頭の中では理解できますが、正直な気持ちとしては、少し引けてしまうところがあります。まだその域には到達していないからか、私はまだ本当の無常感を共有出来るレベルになっていません。

 枯れた葵を見て、長明と兼好は多分同じ心境になるのでしょう。花が咲き枯れる。人間に例えれば、始まりがあり、終わりがあるという一生を、一瞬のうたかたと見る無常感いっぱいの二人の観点からみれば、葵の花も枯れた状態が恋しい物となるのは必然かもしれません。

だれでも抱く人間の揺らぎ

 第三に、二人とも生身の人間の揺らぐ悩みを抱いて、それぞれの随筆を残しているように思えます。「世捨人」とは言いますが、現実の世を全て捨てたのではなく、俗世間の煩わしさから逃れ現実から距離を置いたのではないかと思います。距離を置きながらも本当は、人間や世間の営みに常に配慮していたのではないでしょうか?

 その証拠の一つに兼好は、「なき人の手ならひ、絵かきすさびたる見出てたるこそ、ただその折の心地すれ」と、亡くなった人の書いた文字や慰み半分の絵を見つけると生前の時期に戻ったような心地がすると言っています。

 このように、兼好は現実の人の営みなどにたくさんの焦点を与えており、我々が想像するような「世捨人」ではなかったのかもしれません。世捨て人の形を取りながらも、朝廷や武家の礼儀など、有職故実を教えて生計の糧とせざるを得なかった彼の心の葛藤と矛盾の中でゆらぎ、苦悩したものと思われます。

 書いた文字や絵などは全て無常で、その無常を主張しながらもそれこそが逆に人間の生きる姿を生々しく浮き彫りにし、人間の生きる力の大切さを逆説的に言っているようにも私には受け取れます。

 また、鴨長明も「方丈記」で執着を捨てることを良しと言っていますが、完全に悟りきってはいないようにもみえます。方丈でのこのスタイルの生活が良いということ自体も捨てたいと言いながらも、心のゆらぎが見える感じを受けます。ここに高僧でなく生身の人間の迷いが「方丈記」の中からも読み取れます。ゆらぐこと自体がむしろ自然なのではないでしょうか。

 なるが故に私にとっては、彼も非常に魅力的な人物です。

私への示唆

 「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を」という「徒然草」の中序段での吉田兼好の心境は、私には、「人間普通に生きなさい」と言っているように聞こえます。

 

鴨長明(方丈記)と吉田兼好(徒然草)の生き方、人間(1)

Posted on 2012-12-20

 前回、「方丈記」のことを書きました。

 「方丈記」を読んだ後、以前読んだ「徒然草」をこの1ヶ月読み直し、面白い印象を持ちました。

 吉田兼好は1283年、鴨長明よりも約100年遅く生まれています。

 鴨長明は鎌倉時代に入った頃に晩年を迎えたのに対して、吉田兼好は室町時代初期に晩年を迎えています。しかし、歴史の長い尺度でみるとほぼ同時代の人とみなしても良いのではないでしょうか。

 出自や若い頃の人生は対照的ですが、二人は日本の中世の動乱と不安の時代に生き、世の中の見方や人間に対する興味などに、ある種の共通点を持っているのではないかと思います。もちろん私見ですが、このことが非常に興味深いところです。

普通の育ちとエリート

 まず、二人が歩んだ人生背景を見てみます。

 鴨長明は1155年頃に生まれ多分1216年頃に没しています。平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた人です。

 50歳で出家し、54歳で方丈の小屋に移り住んで1212年に「方丈記」を著しています。維摩経によれば、方丈とは小さく狭くても何人でも入れる建物のことを意味しているようでコンパクトな庵です。

 長明は人生のほとんどを失業状態で過ごし、現代流に言えば経済的には貧困の状態(このことが悪いという意味ではない)にあったと想像します。

 他方、吉田兼好は現代流に言えばエリートの家系に1283年に生まれ、1352年に没しています。

 吉田神社の祠官の三男で大臣堀川氏の家臣でした。長男は叡山大僧正(今流では大学学長)、次男は六波羅探題の長(今流では警視庁総監)と言われているエリート一族で、この点では鴨長明と対照的です。

 時の天皇、後二条天皇に出仕し、天皇の皇子の親王が幼少の時代に、大臣堀川氏の指示により皇子が将来天皇というリーダーになるための「天皇になる心得」的君主論として、徒然草を最初書き始めています。官位と家の繁栄を期して熱心に仕えましたが、残念ながら天皇が27歳で亡くなり政権が変わったことによって教える相手がいなくなってしまい、現代流に言えばドロップアウトしたのです。

 彼も30歳で出家をしています。出家といっても仙人になるのではなく、当時は特権的な境遇の人もいたようです。今の時代のビジネス世界を想定して例えれば、本社から30分くらいで行ける京都の街に研究所的な庵を造り、そこの長として遇された感じと解すれば良いかと思います。

ドロップアウトと出家の身

 前半の人生環境は鴨長明のそれとはとは雲泥の差ですが、吉田兼好の歩んだ中年、晩年の人生は鴨長明と類似しているのが深く興味を引きます。「徒然草」の後半の執筆が前半と趣が違い、距離を置いて世の中を観察する随筆になっていくのはこの人生背景があるからです。

 すなわち、晩年の二人には世の中とそこで生きる人間の観察で共通点が見られます。