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折々の言葉 / 語り継ぐ経営

第147回 孤高に生きる

Posted on 2015-03-19

「孤高の男」のあだ名

 以前経営を託されていた会社にいた時、ある記者から「孤高の男」と私にあだ名をつけられたことがありました。

 あるとき新聞記者諸氏からインタビューを受けた際に、会社の経営を引き受けるに至った経緯、親会社からの資金、人員などの援助をほとんど受けないで社員と共に必死に会社を建て直し、会社を成長軌道に乗せた戦略の背景となる哲学などについて質問を受け、それに対応した内容などから、一部の記者からそう呼ばれるようになったと推測しています。

 私は、付和雷同することが大嫌い、群れることが大嫌い、不正義が嫌い、内容を伴わない形式主義が大嫌いです。しかし、人と人とのつながりを非常に大切にし、正義や信義の保守のための日本的な人間関係を非常に大事にするという、一見矛盾しそうに見える両面を持っているのが、自分でも不思議です。

 

孤高に生きるとは

 考えてみると、この大切な人間関係を強固に出来るのは、逆説的ですが、私が孤高に生きるということの意味を、上述の経営の実体験で知っているからかもしれないと思います。

 ここに孤高に生きるとは、自らの主義や哲学を尊重し、むしろ、それらにプライドを持って生きる、その過程で、プロと称する人からは頭を下げてでも教えを乞い、自分の主義主張や哲学をさらにレベルアップすべく常に思考し、同時に、人との関係を重んじながら行動する信念の人の生き方を言うのではないかと、私は考えています。

 ここに定義する孤高を詰めていくと、孤独だからこそ人間同士の関係をいとおしく貴重なことに思う感覚を持つほどです。すなわち、孤独と人間同士の絆は両立し、その両方を持つ人が孤高の人であるという発想です。

 

最近の事件の背景の一部

 最近発生した、18才以下の若者が引き起こした痛ましい事件をニュースで見るたびに、この人たちは、本当に意味での孤独と人間関係の両方の重要性を分かっていないのではないかと感じます。今回の事件の背景には、いろいろな理由があったと推測しますが、彼らに孤独の中で自らを見つめなおす信念が欠如していることも、その背景にあるのでは?と感じます。

 18歳以下の若者に、それを求めるのは難があるとの指摘を受けるのは覚悟しています。しかし、今の世界の情勢の中で、果たしてそんなことが本当に胸を張って言えるでしょうか。私個人としては、彼らも普通に責任を負える世代だ、そういう人間いなってもらいたいと思います。

 

群がって、敵を捜す

 彼らは、信念が無いので群がる、群がった中のみで自分より弱い者をいじめて満足感をうるという、いわゆる孤独に耐える力の弱い人たちではないかと思うのです。

 いろいろな人との接点を、SNS等で半強制的に求めていく彼らの行動は、孤独に対する不安、恐れがあるからかもしれません。厳しい言い方ですが、孤独からの逃避です。

 実は、この孤独を恐れる心というのが、非常に危険だと考えます。集団に属さないと安心しないことから、他集団を排除する論理や、もっと大きく考えると、国単位での排他的ナショナリズムや民族主義の論理に陥りやすいからです。東南アジアの一部の国でこの現象が如実に表れている事実からも推し量られると思います。

 

国との関係で距離を置き、孤高に生きる国の関係

 国との関係の外交でも、遠くで互いに見守るという付き合い方が良いかもしれません。国民を統率する統治者が心の奥底のどこかでは良からぬことを考えているかもしれないとすれば、違った国の統率者同志が近づくと悪が出てくるものと思います。

 隣国の政治が絡むと関係は更に複雑になります。そこで、国との関係を大切にするのなら、逆にある程度距離を置くべきかもしれません。

 

結語

 個人も国家も孤高に立つことに弱くなった今、自分自身や国家の指導者も孤高の意味を考え、孤高をきちっと見つめる気持ちを持ち、それによって自分や国民が心の奥底で誰かに支えられていることを、是非忘れないでいただきたい。

 

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