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折々の言葉

第170回 日本の安全保障と責任

Posted on 2015-09-03

 戦後70年間貫いてきた、日本の安全保障政策の転換の閣議決定が2014年7月になされ、3年経過した今の国会でいろいろな議論がなされています。また、国会で法案を通過させないためのデモも報じられています。

 暇でもないので国会での議論の詳細はフォローしていません。せいぜいニュース番組で国会の議論の一部を切り貼り的に見るのみですが、それでも議論の質に驚くことが多いのは私だけでしょうか。

 私は政治の専門家ではありませんが、国民の一人として、この立法で日本がより安全になるのか、いざとなったら戦争に踏み切るかどうかの判断と責任を国民が負えるかについて今一度考えてみたいと思い、関連する資料を検索してみました。

 

不明確な重要影響事態と存立危機事態

 安全保障法制の関連法案は10本の改正法案と1本の新法案で成り立っているようです。この国会で議論されていますが、ポイントは重要影響事態と存立危機事態ということ、しかも、それらの内容が必ずしも明確ではないことが問題だということがわかりました。

 

集団的自衛権

 そもそも集団的自衛権とは何かです。

 よく言われる個別的自衛権は、簡単に言えば、日本が他の国から攻撃された時に自らを守るために行使するもので、集団的自衛権は、日本が直接攻撃されていないけれども、同盟関係がある他の国(例えば米国など)が攻撃された時、その国を守るために日本の軍事力を行使するものと、説明できます。

 一見なるほどと思いますが、本当にそうなのかの質問に対して、返ってくる内容は、ほぼ以下のようなものです。

 

紋切り型答弁

 一般的に言われていることは、現在の個別的自衛権では日本人を守れないという説明です。戦争や地域紛争が発生した場合、その地域に在住している日本人が逃げて帰る事態が当、然発生します。仮にその日本人を米国の艦船が保護してくれた場合、個別的自衛権に固執するあまり、日本の自衛隊が彼らを守れないのはおかしいという説明です。

 ただ最近の大臣答弁では、この例において、米国の艦船に日本人が保護されているかいないかは、必ずしも必要な要件ではないとの、おかしな答弁も出だしたのが心配です。

 もう一つは逆の場合です。同盟国の米国が攻撃されているのに、個別的自衛権に固執していると米国を助けられない。これでは同盟と言いながらも真の仲間と見做されず、いざという時に、日本が同盟国(米国)に守ってもらえないのではないかと言う説明です。

 同盟国が日本を防衛する義務を確固とするために、この立法が必要だという説明です。

 更に付け加えて、日本を取り巻く周辺国の覇権情勢が大きく変化してきているので、その情勢の激変に対応するためだという説明が付加されるのが常です。

 

過去の事例

 何故この立法が必要かに関して、上記のような紋切り型の説明を受けても、「そうかな。しかし・・・」と、何となく胸にストンと収まりません。

 そのポイントは、日本の集団的自衛権の行使によって世界の安全保障環境が改善し、日本の国がより安全になるのかという本質的な部分が、少なくとも私には分からないからです。

 具体例が現実にあります。これを材料に国会で質問している政党があるようですが、論理としては当然のことです。湾岸戦争です。この時は個別的自衛権の範囲内での自衛隊の行動が許されました。この時に、もし日本が集団的自衛権を行使し水の補給以外の別の活動に参加出来ていたら、そうでなかった場合に比較して、イラクと中東諸国がより安定していたかを考える、このことが一番理に適っている質問だと思います。

 

抑止力の効果

 閣議決定の後、安倍首相が「万全の備えをすること自体が日本に戦争を仕掛けようとする企みをくじく大きな力を持っている。これが抑止力です」と発言しています。抑止力という響きのよい言葉を持ってきました。

 ただ、万全に備えをすることがどんな抑止力になるのか、その仕組みの説明が不足しているために、もう一つ分かりません。そもそも抑止力が効いているか否かを知るのは不可能で、あくまで推測するだけですので、いろいろな見方が出て議論を複雑にするのです。

 抑止力について調べてみました。攻撃する側に対して、攻撃したら日本が報復することを明確にして、相手に攻撃を思いとどまらせる懲罰的抑止の方法です。もう一つは、攻撃する側に対して、攻撃しても成功しないから無駄だよと攻撃を思いとどまらせる拒否的抑止の方法です。

 子供の頃のケンカを思い出して、それにあてはめるとよく分かります。前提としている戦争は、条件は違いますが国間のケンカです。ケンカで抑止が成功するには、相手に思いとどまらせる認識をケンカ相手に持たせることです。それには、自分に報復する力があるよ、強いんだよ、いざとなったらこれを使う意図があるんだよ、ということをケンカ相手に知らせなければなりません。

 さらに、そのような状況を相手側も認識を共有しなければなりません。日常の付き合いから自分とケンカ相手とのある種の関係を構築しておかなければなりません。つまり、ケンカするかもしれない相手と没交渉では成り立たないのです。いざとなるとやる力と意図を認識させるほどの付き合いを普段からしておかなければ、抑止力は効果が無いと言わざるをえません。

 

現実のトラブルの具体例で説明

 現実に、国際間ではいろいろなトラブルが起きています。

 大規模な戦闘は別として、仮に尖閣諸島などで、ある国が日本領土を侵害したような場合、同盟国が日本の防衛に本当に参加するのでしょうか。これ以上日本の領土を侵害すると、日本と同盟国がその国を攻撃し被害が大きくなるから止めろよとの抑止力が効果あるのでしょうか。

 先ほど、湾岸戦争の例を出しましたが、上記の場合も含めてどのような場合に集団的自衛権を行使するのかの具体的な議論が国会では欠如しています。早く具体例で議論をしてほしいと思います。

 ケンカを例として説明した抑止力が、現実に効くのか否かの議論も実質的にできないまま、法案が可決されてしまうからです。集団的自衛権の行使を軸とする安全保障関係の法律が可決されると、ケンカ、すなわち、戦争をするか否かの決断とその結果の責任が、自分、すなわち、国民にのしかかってきます。

 

近隣諸国との外交関係

 法案の行く末とは別に、重要なことは、トラブルの相手とのある種の関係が無いと抑止力が効かないとすると、近隣の諸国との外交関係を樹立が急務です。

 

戦争検証の実施

 加えて、第二次世界大戦に対する我々の検証を早期に実施すべきです。

 戦争裁判など他国がためにした裁判とは言えない裁判はあったとしても、未だに我々日本国民自身による検証がなされていません。

 過去、思うとおりに動いてくれる日本にしたいアメリカによって、いろいろな圧力で検証できなかったところがあるかもしれません。また、日本人の「まあまあ」的な悪い所が顕著に出ているところでもあります。しかし、独立国としてもう70年が経過した今こそ、これを検証しなければなりません。日本人の性癖とは別次元の話です。検証がなされないまま、安全保障や集団的自衛権の議論にいきなり進展しているのが、どう考えても普通の考え方をしている人には納得いかないところです。

 考えてみれば、今の沖縄県と政府のやり取りを見ていると、根本的に、戦争検証がなされていないところに双方の軋轢の根本的な原因があるようにも思えます。

 

第169回 新しい取り組みをする

Posted on 2015-08-20

 どの分野でも競争が激化しています。同じ業界の中での競争は当然として、言葉は悪いですが、違う業界から殴り込みをかけられることにもなりかねません。

 皆様のビジネス分野では、できれば、この逆でありたいですね。そのためには、大げさに言えば戦略的な思考が望まれます。

 相手がいるスポーツ競技を例にとるとよく分かります。データによれば自分より勝る相手に、どう勝つかの研究をそれぞれの選手は入念にし、その上で勝負に臨むと思います。事前の研究が良くても負けることはありますが、その研究をした方が、はるかに勝つ確率が高いはずです。

 皆様は、そのためにどんな研究と準備をすればよいかです。

 

競争の現実

 商売をやっておられる方々はどなたでも、特定の仕組みやチャネルで、毎日特定の商品やサービスを販売し、結果として利益を上げておられると思います。

 その状況に、「違う商品やサービス」を持ち込む相手が出てきたらどうしますか?同じ商品やサービスの販売に、「違う仕組みやチャネル」を持ち込む競争相手が出てきたどうしますか?

 「どうすますか?」という悩みが、現実に発生しているはずです。自分のシェアが奪われ、利益が減少することにもなります。 戦略は、この逆を考えれば良いのです。

 

違う商品と違う仕組みやチャンネルを考える戦略

 もしあなたが営業の責任者であれば、営業の戦略を立案する立場にあります。毎月の計画をクリアするのは当然として、その上で勝つ戦略を練らなければならない立場です。

 その作戦が本当に競争相手に勝つ戦略になるには、

(1)これまでと違う新しい商品やサービスを今の段階で考え、試行錯誤を重ねながら、本物の商品やサービスに仕立てる必要があります。

 これが結構難しく時間がかかるのですが、本人が本気で戦略的思考をしていれば数年で結果がでてきます。

 既存の商品やサービスで十分食える間は良いとしても、マーケットが成熟していった段階で後悔しても遅すぎるのです。

(2)また、これまでの営業などの仕組みに構造的疲弊が出てきていませんか?

 昨年まで、その仕組みやチャネルで営業展開をしてきたが、どうも最近上手くいかない、仕組み自体が限界に近づいていることに気づくはずです。そうなると、自分の会社の営業などの仕組みに新しいものを導入しなければ、競争に勝てないはずです。

 さもなくば、会社自体が沈没の危機をむかえるリスクが高くなります。

 新しい商品やサービスを導入したり、仕組み自体を変えたりするには相当の抵抗があります。しかし、世の中の成功している企業をみると、ほとんどが、上記の(1)、(2)を、時間差を置いてでもやった企業です。模倣され、当初あった「差異」が平準化する前に、そのような手を打つべきです。

 

新しい武器が利用できないか、既存の仕組みは本当に打破できないか

 営業展開に利用できる新しい武器がどんどん出てきています。ネットの販売チャネル、ネットを利用した販売促進策など、費用対効果を重視した方法もあります。

 にもかかわらず、過去の営業の仕組みを踏襲するだけで満足するような営業の責任者は、その会社を存亡の危機に導くことになりかねないという認識をもたなければなりません。

 

少しでも新しい取り組みを

 新しい商品やサービスを新しい仕組みに乗せる営業戦略、すなわち新しいビジネスを創造するのは、理論上は納得できるとしても、現実の商売をされている方々の一部にとっては少しハードルが高すぎると思われるかもしれません。このような営業の責任者には、議論のみでなく、少しでも良いので何か新しい取り組みを本気試してもらいたいです。事業に新規性を取り入れてほしいのです。

 私は過去、現場レベルにも「当月、どんな新しい取り組みをしたのか?」と、毎月の業績報告会で必ず、聞くことにしていました。最初はこの質問に窮する社員も、毎月しつっこく聞く社長の本気度に負けて(?)、数か月後には新しい取り組みをするようになったから不思議です。

 経営者がこのように現場の社員に問う限り、経営者や幹部社員の戦略にも当然、新しい取り組みが必要です。人事、組織等いろいろ関係しますが、営業的に一番重視していたのが、商品やサービス開発に新たな投資配分をすること、および、営業展開の仕組みの中に、クライアントに付加価値をつけられる仕組みを創造することでした。

 全て出来たわけではありませんが、それでも、既存の商品やサービスの近辺で新しいものが開発されました。それらが、業績にも貢献するまでにもなりました。そのクライアントに合った付加価値の高い仕組の開発も手がけました。どうしてもコモディテー化しやすい商品を仕組みの新しさでカバーする作戦で、業績にも少しは貢献できました。

 ご参考になれば幸いです。

 

第168回 本当の自分を見せる力と自分のブランドづくり

Posted on 2015-08-13

集団の中での映り方

 自分のキャリアを前進させブランドをつくるには、いろいろな力が必要です。

 自分のスキル、資質、チャンスなどいろいろな力が影響するので、その時の状況との関係をどう判断したらよいか迷うことが多いです。

 それが事実だとしても、自分が集団の中でどう映るか、できれば自分の本当の姿を見せる力もブランドづくりにとって重要なことです。結果として、リーダーシップをどれだけとれるかに必要な要素となるからです。

 

自分の力の認識

 誤解が無いように言いますが、あえて自分のブランドを良く見せたいと、力以上のモノを示す必要はありません。そのような行為があまりに前面に出過ぎると周囲から策士にみられ嫌われます。

 政治力のみで生きている人、日和見的な人とみられ、自分のキャリアとブランドづくりにとっては、かえってマイナスです。

 

経験の中で登場する人

 私の周囲にもそのような人がいました。どこに権力の中心があるかを一早く察して、そこのみに注力して仕事をする人です。

 当時、私は社長として権力の中心でしたから、それを察して私以外の他の社員には見向きもしない幹部社員がいました。自分と権力の中心との距離を常に監視しながら、権力にへつらう姿が見えました。

 ところが、ある案件でファンドという資金の供給元に権力が移りそうと察すると、他の人を巻き込んで裏工作をする姿も見えました。自分がどう映っているのかを知らずに、裏工作の一環で平常を装って私にアプローチする彼とのミーティングを自然体で対応するのには苦慮しました。

 彼の隠された意図は、かなり前の段階から私には見えていました。水面下での彼の動きが、会社全体の利益や他の社員のためには明らかにマイナスだと分かっていたので、そのミーティングでの取り繕った発言が滑稽でもあり、余計息苦しく感じていました。

 皆さんの周囲にもこのような人がいるかもしれません。自分本位に考え自分の本当の姿を偽って表現し周囲を欺く人、権力が移転しそうだと察すると、すぐ、違う行動を起こし、新たな権力の中心にへつらう可哀そうな人です。いわゆるブランド造りを誤っている人です。

 このような人にならずに、正常にブランドをつくるためにはどうしたら良いのでしょうか。

 

1.まず周囲の人に自分の姿を正しく認識してもらう努力をすることです。

 周囲の人は、あなたの本当の姿を誤解していることが結構多いものです。特に、コミュニケーションが苦手な人に多く発生しているかもしれません。周囲が勝手にあなたの姿を認識する中で、本来、あなたが欲している周囲の認識傾向をどうマネジメントできるかにかかっています。

 そのためには、まず、自分自身を知ることから始めなければなりません。自分を知るいろいろな方法があると思いますが、一番自分の姿を知ることが出来るのは集団が集まり意見を交換する会議体です。

 周囲の人があなたをどう見ているのかが、その場で大枠分かります。

 どの場面で誰があなたに質問を投げるか、それがプロレベルの質問場面か、経営の方向性を左右する場面での質問か、単純に時間つぶしの質問かなどいろいろあります。

 それらの状況を総合すると、質問をする人の実力のみならず、質問をする人を含め周囲があなたをどう見ているかが良く分かります。

 集団の中でのこの場がまず出発点と思うことです。この出発点からあなた自身のブランドづくりの努力が始まります。

 

2.その上で、自分のレベルに合ったブランドをつくることです。

 皆、自分のキャリアを描き、それを目指して頑張っているはずです。その過程で自分の将来の価値を如何に築くかを決めることになります。

 成り行きでブランドが出来ることもありますが、その場合、自分が目指すブランドとのかい離が発生して、自分が不安定になります。勝手につくられたブランドが実力より高い場合、そのズレを調整しようとするがゆえ、高望みをして失敗することにもつながります。逆にそれが低すぎる場合には、自分自身に不満が募り、仕事が手につきません。

 こう考えると、自分にとって適正なブランドを造れたら一番幸せです。高くもなく低くもなく、自分の実力などを反映したレベルです。

 

3.自分のブランドを強化するために、手順が必要です。

 周囲の認識傾向をマネジメントする必要があると、先に述べましたが、手順を踏んでやることが、その解決の一つになります。

 ビジネスマンは、いろいろなハードルを越えて成長し、その過程で自分のブランドを造っていくことになります。人によって一番重要な時期は異なるかもしれませんが、少し過大表現を許していただければ、人生勝負を賭ける時期がビジネスマンなら誰にもあると思います。

 その時期に備えて、あなたの意見や考え方に賛同する人々を増やすことです。周囲にあなたの考え方を広め、社内に変革の波を起こすのです。ブランドづくりには、やはり人的なネットワークがモノをいいます。社内のみならず、社外でのインフォーマルな活動も含めて、自分自身を更に知ってもらうネットワークです。これが結局、自分のブランドを強化することになります。

 自分の考え方に賛同する人を増やすことは、単純に暴れることを言っているのではありません。問題は暴れる根底の考え方です。単なる不満だけでは大義名分がなく、賛同者は現れません。集団や社内を更に良くするための具体的な方法論を持っていることが必要です。これが自分のブランドを強化する一つの手順です。

 

4.これらのことを誠実に実行することです。

 軸がブレないことがブランド造りには不可欠です。

 一定の考え方に基づいた行動について、常に、裏表がないことが求められます。表裏の無さは、他の人とのコミュニケーションで相手に伝わり、相手も貴方の人となりを理解することになります。

 その意味で、自己の一貫した信念を広めていくため、上司や部下との誠実なコミュニケーションが求められます。

 権力の構造など気にしないことです。それよりその集団や会社を更に良くする信念を持って改革の趣旨を説くことに邁進してください。熱意が伝わります。結果として、あなたの欲していたブランドを築くことになります。名刺の肩書や、利害と関係なくあなたを慕って人が集まってくるでしょう。

 ご参考になれば幸いです。

 

 

第167回 ヨーロッパの精神性の概観(4)

Posted on 2015-08-06

前回からの続きです。

 

5.合理主義精神

 以前、このコラム(第125回)理と情でも述べましたが、私はヨーロッパの人々と日本人の思考パターンには、根本的な違いがあると考えます。

 ヨーロッパの人々は、組織よりも自分のメリットを優先しているのが一般的です。

 常に自分自身のことを考えているということです。彼らも当然組織に属しています。しかし、優先するのは個人の利益(ベネフィット)です。何かの決定が自分自身にとってどんな利益、ベネフィットをもたらしてくれるか、不利益をもたらさないかをまず発想する思考経路、すなわち、合理的な発想を本質的に持っているのです。

 徹底して個の合理主義を尊重する背景の一つは宗教にあると、個人的には考えます。

 中世の頃は、カトリック教の一神教がヨーロッパを覆っていました。一神教では、崇め奉る対象は宇宙を創造する神のみです。それ以外は皆対等で、そこに階層の固定がありません。フラットです。“In God We Trust ”と神から発想し、フラットな中で個を主張、しかも、その主張が論理的、合理的なものでなければ、周囲を説得できず生きていけません。これが背景の一つかもしれません。

 少しは相手のことを慮り、非合理的な発想をする我々日本人の発言や行動とは、明らかに異なります。我々は決定的なケンカを避けて和を重んじます。

 合理的な発想をしたとしても、時に、自分自身より自分の属する組織や集団が変な影響を受けないか、人間関係を重視した思考回路が優先的に働くようです。

 ここに、日本人には、考え方や行動の根底に、理(ロジック)にかなっていない場合にも、理より情が優先的に流れているように思います。ヨーロッパの人びとの精神性との大きな違いです。

 ご参考になりましたでしょうか?

 

第166回 ヨーロッパの精神性の概観(3)

Posted on 2015-07-30

前回からの続きです。

 

4.支配、被支配の明確な位置づけ

 ヨーロッパの人々は動物を愛護する一方、人間と動物の間に一線を画し、人間をあらゆるものの上位に起きます。我々日本人が自然や動物と一体感を持つ発想とは明らかに違います。

 私の知る限り、キリスト教はじめヨーロッパの宗教は、ヘブライ人の民族宗教たるユダヤ教から発展したものです。ヘブライ人も人間と動物の間に一線を画したそうです。旧約聖書では、人間は「神の似姿」で動物を殺して食べる権利があることが、はっきり認められていると言われているほどだからです。

 牛、馬、羊、豚などを平気で食べる一方で、彼らは動物愛護運動に非常に熱心で、日本人は動物に残酷であると非難するほどです。魚も一緒です。イルカや鯨の捕獲について、和歌山の海岸での捕獲方法や、調査船での鯨捕獲が批判の的にされているのは、「残酷」の意味が違うからです。イルカの捕獲方法が不必要な苦痛を与えているとしか、彼らは見ないからです。従って、不必要な苦痛を与えない限り、彼らにとって動物を殺すこと自体残酷ではないかもしれません。家畜も大切に育てた上で食用にします。

 今回の旅行で私が感じたことは、人間と動物の関係の引き直しとして、人間同士の関係でした。上記の通り動物より人間の上位を強調する人間中心の考えがヨーロッパ思想の根底あることでした。

 ただし、ここでいう人間とは、当時キリスト教のヨーロッパ人に、更に極論すれば、昔はカトリックのキリスト教に限られそれに非ざる人などは含まれないのではないかということです。

 この人間中心主義の考え方は、人間を類型化させる危険をはらんでいます。カトリック教徒の人間とそれ以外の人間に分ける論理を生み出す温床にもなるのです。動物や非ヨーロッパ人などを順次疎外していく強烈な論理は、最後に本当の人間として残すのは、少数の支配階級のみという極端な論理になります。

 支配者と被支配者に分けられ、ここに曖昧さは在りません。世界史の中で数々の残虐な結果を刻むことにもなりました。

 この論理に比較して、いろいろなものとの調和を重んじる日本では、動物との支配・被支配の関係のみならず、人間同士でもそれがヨーロッパほどは、はっきりしません。ここに大きな違いがあります。

 また、支配階級の締める割合も違います。

 日本の場合、徳川時代、支配階級である武士(下級武士で支配階級に値しない人も含む)の総人口に占める割合は5%前後と言われています。フランスでは、1789年のフランス革命のときの僧侶と貴族の比率はそれの10分の1だったそうです。一桁違います。

 ヨーロッパの支配階級が広大な宮殿と庭園を持つことで貧しい人々の恨みをかい、民衆が爆発するのは、いとも自然なことだったのではないかと、宮殿や庭園を見学しながら私は感じました。

 権力の差とは言え、あれほどの贅沢は普通の人間には許されない、革命が起きるのも当然と感じた次第です。

 蛇足ですが、もし、私が中世のフスの時代に生まれていたならば、私も宗教改革の先頭を切っていたかもしれないと思います。時の宗教の矛盾があったら、約700年前、私も体をはって抵抗したのではないかと、フスの大きな像を見ながら思いを巡らせました。今、「1人1票国民会議」の運動で頑張っておられる升永先生はじめ諸先生の活動には、宗教と政治の違い、時代背景の違いがありますが、まさに頭が下がる思いです。