


折々の言葉
日本人の精神性(1)
実は、前回コラムで紹介した二宮尊徳や上杉鷹山等の生き方に私が賛同できるのは、彼らの経営改革姿勢の背後に深く流れる日本人の精神性のどこかに共感するものがあるからかもしれません。
大和こころ
これを「大和魂」と呼ぶことがあります。「大和こころ」も「大和魂」も、誰の耳にも良い響きを持ちます。そもそも何でしょう。
この言葉を最初に使ったのは紫式部であるといわれています。源氏物語の「乙女の巻」には漢才-当時の中国の学問を学んでこそ大和魂は重んぜられるという表現があるようです。
平安時代に用いられたこの言葉は、漢学に代表される外来の知識人的な才芸や技法に対して、日本在来の伝統的知識、生活の中の知恵、教養を言ったとされます。漢意(からごろも)に対して作為を加えない自然で清純な精神性を言います。
「大和こころ」は、戦中、戦後は軍国主義的にみられていましたが、これは政治的に利用されただけで、大和こころの本来の精神性の意味は変わりません。
我々日本人のこころのどこかに日本の伝統を重んじ、二宮尊徳や上杉鷹山のように民のために一身を投げ出すという少し教条的ではありますが、自然で清純な気持ちが潜んでいるのではないでしょうか。私の心にも同様な精神性が潜んでいるように思います。
忍耐と自己鍛錬をする心
日本人は自己を磨く、そのために耐え忍ぶ性癖を持っています。この過程が自己鍛錬のやり方として象徴的に表現されることがあります。
自己鍛錬の例は、優れたスポーツ選手の事例が沢山挙げられています。「イチロー」選手など優れた野球選手がバッターボックスに入るまでを見ているとわかります。本人のしぐさや自分のゾーンに入る精神統一などを観察すると、その人の心の一面が見えるほどです。
あるレベルを超えるための自己鍛錬のから取得した精神統一法だと思われますが、われわれ日本人の精神構造に忍耐と自己鍛錬の仕組が組み込まれているということかもしれません。レベルは違うとしても、私自身も同様な精神構造を共有していると思えることがあります。
鎮守の杜と自然信仰
田舎にある鎮守の杜を訪れたことがあると思います。一歩足を踏み入れた時の冷厳でな気持ちや畏敬の念、自然への尊敬の心は、私のみならず大半の日本人の中に潜んでいると思います。
日本の首都、東京のど真ん中に江戸城という広大な自然林が残っていることを我々日本人は何の疑いも持たず普通に思っています。ヨーロッパの首都の真ん中に広場と教会がセットであるのとは大きな違いです。日本人は山川草木あらゆるところに神が宿ると考えています。古来日本人が抱いていた自然信仰と関係があるかもしれません。
自然界のどこかにいる神への畏怖の念を私も鎮守の杜で抱きます。
しかもこの時の自然に向き合う姿勢は対決でなく調和です。人間相手でも共存する手法を取ってきました。武力でなく言葉で服従を誓わせ平定する国譲りの記述も古事記にあるほどです。
「おかげさま」という感謝の気持ち
私自身「おかげさまで」との言葉をよく発します。別に意識しているわけではありません。自然に出るのです。
心学の開祖、石田梅挙は「先も立ち、我も立つ」と、利を共にする思想を説いたと言われています。「おかげさま」という感謝の言葉、直接何かをしてくれたわけでもない相手に感謝する気持ちは、この辺から生まれたかもしれません。
「おもてなし」の言葉もこれと関係があるのでしょうか?日本人が非常に大切にしたい言葉と考え方の一つで、「利他」と通じ日本人の底流に流れている精神性の一つと位置づけています。
包み込んで同化させる大きな心
日本では古来海外のいろいろなものを同化してきました。この日本に、百済から仏教が入ってきました。自然信仰の古来の日本に仏教を導入し、そこから沢山の知恵を学びこれを包み込んでしまいました。
神仏習合です。
日本の宗教は神か仏でなく、神も仏もいるととらえます。多神教というより汎神教です。英語という言語もジャパニーズ・イングリッシュとして、日本的なものに手直しした部分が相当あります。外国からの知恵も同化させました。
日本人の精神性の具体的な例として、七福神と風呂敷をあげる人もいます。
七福神のえびすは日本古来の神様です。毘沙門天、弁財天はインド起源の神様、大黒天はインド由来の神と日本の大黒様が習合したもの、福禄寿と寿老人は道教の神、布袋は中国の和尚と言われています。この神様達の源は違うとしても、彼らを一緒に宝船に乗せて福の神として崇めまつっています。ただし、日本人はなんでもとり入れたわけではありません。儒教はいれましたが、孟子の革命思想は入れませんでした。宦官や科挙も入れていません。
風呂敷に包みこむにあたってもきちっと取捨選択をしています。欧米各国に行くと、この風呂敷のように、中味に変えて変幻自在に包み込めることの発想の優秀さも感じるところです。これもある種の精神性とみなしてよいかもしれません。
経営上、尊敬する歴史上の人物
歴史上の人物で興味ある人物が沢山います。もちろん彼らに会ったことが無いので、その人物の全人的なものは観察できません。ある一面のみから判断したのも事実です。それでも興味ある人物です。
好きな日本人で経営上も参考にさせていただいた人物に、二宮尊徳(1787年~1856年)と上杉鷹山(1751年~1822年)がいます。紀元前200年頃の中国で、連戦連敗しながら最後に項羽と戦ってやっと勝ち、今の中国の基礎をつくった劉邦も「バカになる」ところの印象が強く私が好きな一人ですが、本日は日本人を例に取り上げます。
二宮尊徳
先日、ある家の前に二宮尊徳の像があるのを見つけました。というより私はそこに像があることを何年も気づかなかっただけのようで、私の長女の子供が彼の目線でいとも簡単に見つけてくれたのでした。私の身近なところに、突然二宮尊徳像が現われました。
孫曰く、「あのおじさん、なんで何かを背負って本を読んでるの?」(笑)。
以前にもこのビジネスコラムで、二宮尊徳のことを少し触れたことがあります。最近の生活環境と違うので、薪を背負いながら本を読む姿がスマホ世代の孫どもには理解できないのも納得します。
私の年代の人は、二宮尊徳のその生い立ちからして、質素倹約、勤勉の道徳尊重の代表選手というイメージをいだきます。それが正しい観察だと自認しています。父を14歳で、母を16歳で亡くし伯父の家に引き取られた二宮尊徳は、労働を強いられながらも小田原にいる頃「論語」「大学」「中庸」を独学で学び道徳と知識を身につけた人だと言われています。
昔は、二宮尊徳が薪を担ぎながら本を読んでいる銅像が、どこの小学校にあったはずです。数年前にも私の郷里の出雲で、近くの小学校に3体の尊徳像が存在していたのを覚えています。
戦争中には二宮尊徳の質素倹約の姿勢が軍に上手く利用され、イメージが変な方向に走った時期もありましたが、彼の本質は軍の考えとは全く関係の無いものだと思います。尊徳は青年になってから家を再興した後、小田原藩の服部家などを再興したほどの大人物です。
彼の特徴とするところは、貧しい人々に金銭的支援や年貢米の減免措置を施すことのみでは効果がなく、農民の年貢米の徴収に関してある程度の余裕のある基準を作って農民の生活を少し潤わせたことです。仕えていた藩主を説き当時の農民が無理なく収められる年貢米の限度(分度)を決めたことで、農民への思いやり(仁術)を実践した人物と言われています。
彼は誰でもわかる単純な方法で取り掛かりました。どの村も貧しい状態が続いていましたが、その中の一番貧しい村に彼の改革の全精力を注ぎ、農民全体にその村のやり方を徹底させたことです。「一つの村を救える方法は、一国をも救える」と彼が言ったと言われます。
私も「その通り」と思います。模範となる実績、実例を現実に作ることで、まず範を垂れる方法です。彼の改革方法がすごくスーと頭に入り、彼の方法にリーダーとして学ぶべき経営論理の普遍的な部分がありそうに見えました。
私も経営する過程でこのやり方を真似た一人です。組織の中で一番悪いグループに全知全霊を傾けて改革に取り組みました。一番悪いがゆえに改革には大変なエネルギーが必要となり、我慢比べにもなりました。
そこの部門が改革されると皆、「あそこが改革できたので自分の所も改革できそう」と、他のグループが自信を持って改革に取り組んだエビデンスが存在します。事象はいろいろありますが、共通している課題はその部門のリーダーが部下の成長に関心があり、部下の成長のためにリーダー自身が範を垂れるか否かです。
また、二宮尊徳はそれぞれの農村の生産力に応じた分度を定め勤倹を説き、その結果としての富を譲り合うという報徳思想を広めました。お互いにサポートしあいながら全体の計画を達成するという私が主張する「農耕型企業風土」づくりの経営にも一脈通じるところがあります。
上杉鷹山
上杉鷹山も好きな一人です。彼は米沢藩の跡継ぎの立場で藩の極貧の状態を解決するために数々の改革を実施した、あるいはせざるを得なかった人です。
1981年、米国の35代大統領に就任したJ.F.ケネデイーが日本の記者団から「あなたが日本で最も尊敬する政治家はだれですか?」との質問を受け、大統領が「上杉鷹山」と答えたほどの人物だと、ウィキペディアに記載されています。
故ケネデイー大統領はおそらく、米国内で出版、翻訳された内村鑑三か新渡戸稲造の著書を読んでいたのでしょう。当時は記者団の中に即座に上杉鷹山の人物像が浮かぶ人がいなかったのではないかと思いますが、実は大変な改革者です。
上杉鷹山は非常に信心深い人だったようで、儒教的な教えの影響も受けて経済を道徳と関係付けた人かもしれません。富を徳の結果とみなして、徳育の教育のために「興譲館」(謙譲と徳を興す館)を晩年に創設したほど徳育教育を実践した人です。
また、いったん決めたら絶対に譲らず、不退転の決意を持って改革に取り組んだ彼の姿勢にも共感します。その志の高さと志を実現する強固な意思には感服します。
経営上「社員の幸せ感」を実現することこそが経営上の優先順位が高いこと、したがって、「社員を幸せにする」ことが先決で、これなくして企業の中期的成長はないとした「農耕型企業風土」づくりの経営の中での私の主張とどこか通じるところがあると思います。
教育・研修で人材育成を図る重要性を認識し、これも私は実施しました。志の高さと強固な意思は社員を引っ張るためのリーダーの前提で、鷹山に習ってこれも実践しました。
米百俵
幕末の戊辰戦争(北越戦争)で敗れた長岡藩の選択の件を思い起こします。教育と人材育成の重要性です。戊辰戦争での敗戦後、長岡藩の74000石の石高が、なんと30%まで減額されました。当然、藩が困窮の極みに陥りました。
長岡藩のこの窮状を知って三根山藩から米百俵が見舞いとして贈られました。この米を食べたい藩士が多い中、藩の重役小林虎三郎(佐久間象山の門下生)はその米を腹の空いた藩士に配らず、教育のための書籍や器材の購入に充てたと伝えられています。何よりも重要な人材育成にその金を使ったのです。
上杉鷹山の考え方も米百俵の内容と同様で、私が尊敬する理由もそこにあります。「人材無くして成長なし」です。
紫陽花の一首から天平の世を見る(2)
前編で橘諸兄の歌を紹介しましたが、今回はその続きです。当時の時代背景を知ると、詠まれた歌の本当の意味が浮かび上がってきます。
「壬申の乱」の当事者となる二人、天智天皇と大海王子(天武天皇)が詠んだ歌も万葉集に残っています。しかし、編者が意識的に削除したのかどうか、当時の闘争を匂わせる歌はありません。
その中でも大伴家持や額田王などの歌には、この闘争を若干推察させるものも存在します。中でも、先に挙げた橘諸兄の紫陽花の花を組み込んで詠んだ歌は異色と思います。
「壬申の乱」は日本の歴史においても稀にみる内戦でした。
苛烈を極めた権力闘争を勝ち抜いた天武天皇の時勢には藤原一族が牛耳り、それにたてつく役人などは徹底して排除、左遷されたと言われています。
先の橘諸兄と同族の一派かどうかは不明ですが、藤原一族の横暴に対して橘奈良麿という人物が「橘奈良麿の変」で藤原仲麿に謀反を起こそうとしたのですが、橘奈良麿が最も信頼していた側近の告げ口によりこれが事前に発覚、橘奈良麿は殺害されてしまいました。
有名な大伴家持も左遷組で、北越から都の奈良に戻ることを願望していたのに印旛の国へ左遷され、腐った毎日を送った役人の一人です。酒浸りの中、地方から奈良の都を懐かしく詠んだ歌があります。
彼は藤原一族に対して中立を保っていたにも拘わらず、42歳で印旛の国に左遷されたようです。その後、68歳で逝去するまでの歌は一首も残っていないそうです。万葉集に編纂された彼の歌はすべて、42才以前のもので、彼の落胆の度合いが分かります。
最後に、「壬申の乱」との関係で額田王の歌も面白いです。
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
これは皆様学校で習った歌です。
万葉の時代、毎年5月5日には薬狩りと称して薬草を摘み、鹿などを追う行事があったようです。
場面は滋賀県の近江の蒲生の野原です。
額田王は天智天皇と、彼の弟である天武天皇との両股を掛けた色恋沙汰の本人です。野原での薬草摘みの場面でかつての恋人に会いたい、でもこのことを誰かに気づかれることを懸念した心の混乱がこの歌からにじみ出てきます。
彼女が、先に述べた「壬申の乱」の一因との説もあるほどです。エビデンスが無く証明はできませんが、この歌はそのことを何となく匂わせるものです。
今の季節の花、紫陽花から天平の時代を推察しました。
紫陽花の一首から天平の世を見る(1)
久しぶりに万葉集を紐解いてみました。
万葉集5416首の中に花を材料にして詠んだ歌が沢山あることを知っており、花と歌(首)との関係に興味を持ったのがきっかけです。歌が詠まれた時代背景の中で作者が置かれていた状況を思い浮かべ、歌の中に状況がどう反映されているのかを勝手に読み解く楽しみがあります。
今日は紫陽花について書きます。私が大好きな梅雨頃の花です。万葉集に選ばれた5416首の中で、紫陽花について詠んだ歌はこれ一つ、橘諸兄の一首のみとのことです。
紫陽花の 八重咲くごとく やつ代にて いませ我が背子 見つつ偲ばむ(橘諸兄)
万葉の歌は男と女との関係を詠んだものが多いのですが、この歌は男が他の男の状況を思い浮かべて詠んだものと想定されます。内容的には紫陽花という花とは似ても似つかない恐ろしいものです。
「紫陽花の花が幾重にも咲くように、いつまでも元気でいてくださいよ。私も気をつけますから」、という内容と思います。これだけの解説だと、友人の健康を祈願した歌で何の面白味も無いものですが、詠んだ人や詠まれた当時の状況を知ると、この一首にはある種の暗号めいたメッセージが盛り込まれていることが分かります。作者の橘諸兄が、紫陽花の花が咲く家で彼の友人の男性の身を按じて詠み、この一首を届けたと考えられます。
それではこの歌は、どのような状況下で詠まれたのでしょうか。「壬申の乱」(672年)の頃の日本の中心地、奈良の都では権謀術数が渦巻く世の中であったと想像します。時代背景としては異母兄弟の大津王子(天智天皇)(兄)と大海皇子(天武天皇)(弟)を頂点とする一派間の権力闘争の真最中で、暗殺まで横行していた時代です。
大津王子は蘇我入鹿を殺害し、645年に藤原鎌足と「大化改新」を実行、その後百済の復興を企画して「白村江の戦い」で敗戦。ついに「壬申の乱」で大海王子(天武天皇)一派に敗れ、大津王子(天智天皇)は自害。
天智天皇一派の時代になり、政務の実権は藤原仲麿に移りました。反藤原一族のこの歌の作者、橘諸兄は政争の渦の中で、どちらかと言えば藤原一族の暗殺団に狙われる立場であったかもしれません。暗殺回避の連絡のために詠んだと思われます。橘諸兄は左大臣まで努めた実力者でしたが、その後左遷されたようです。この歌に詠まれた彼の友人は生きながらえたかどうか分かりません。
万葉集の編者がこの一首の隠れた意味を推察できずに選んだかどうかは分かりませんが、幸いにもこの歌が残っていたことで、我々は当時の生々しい時代背景の一端を知ることになったのかもしれません。
したたかな生き方(2)
前回の続きです。
実質倒産寸前だった会社の経営を託された過程で、私は雑草の生き方と自分の経営方針に共通する何かがあると感じて雑草が好きになりました。そしてその生き方から、世の中の変化や逆境をどうやって味方につけビジネスマンとして生きるかの知恵を学ぶことになりました。
逆境を味方にする生き方
第一は、目的志向です。
目的が明快です。花を咲かせ、次につなぐことを目的とします。雑草は1年草ですから、寿命が短いです。でも短いが故にタネを残すまでに不測の事態が起こるリスク期間は少ないです。ある意味で1年草はもっとも進化した植物かもしれません。
会社経営で仕事のサイクルを短くして成功のサイズを小さくする、小さな目標、目的を確実に実現し積み上げて結果として大きくしていく志向に通じます。
第二に、分をわきまえることです。
どこで勝負をするかをわきまえています。先ほど述べたタンポポやオナモミはサボテンなどの育つところでは勝負しない雑草です。サメが沢山泳ぐような大海では勝負しない経営に似ています。
第三は、環境適応力です。
我々が食べるイチゴなどの作物は不適切な条件では余裕が無く、花が咲かず実がならないこともありますが、タンポポなどの雑草は不適切な条件であっても環境に合わせて体の大きさを変えてでも対応し、間違いなく春に花を咲かせます。
ビジネスもしかり。自分の商品を買わない方が悪いという発想でなく、環境の変化に適応していく力です。
第四は、No.1になる努力です。
自然界ではどんな生物でも自分がNo.1にならない限り長期的には生き残れないようです。沢山の植物が一つのニッチに住むのは結構難しいようです。そこで生き残って自分がNo.1になるために、自分に適したニッチな場所(生息領域)を何が何でも探す必要があります。そういう環境を探して生き、勝利した方が更に強く生き残れるからです。
翻ってビジネスの世界では、一つのニッチにたくさんの競争者がひしめき合っている状況を見ます。もっと、自分にしか適していないニッチな領域を探せばよいのに、と思いませんか?ここに知恵が必要となります。
第五は、タイミング、時を読むことです。
タンポポやオナモミの成功で一番重要なことは発芽のタイミングです。これらの種子は、時期が来るまで土中で準備しながらジッと発芽のタイミングを待ち、チャンスと見れば一気呵成に芽を出します。種子は光が当たることで芽を出します。タンポポは道路のアスファルトの割れ目であろうが光が当たる場所でタイミングを待って一気に咲きます。オナモミも山野の光が当たる場所を探し、時期を待って咲きます。
ビジネスしかり。人を得て、状況が良くても、時を得ないと勝負に負けます。経営の才の一つはこの「時を読む」ことにあります。
第六は、忍耐力です。
これらの草は踏まれたら立ち上がりません。地面に伏せています。彼らにとって最も大切なことは花を咲かせる目的を達成すること、その後タネを残すことです。環境に合わせて変化します。踏まれたときに立ち上がる無駄な努力をしません。ビジネスマンも耐えて目的を達成するまでこれぐらいの忍耐力を備える姿勢でないと本当の経営者に成長はしません。
第七は、Going-Concernの精神です。
雑草は、毎年必ず咲きます。忘れたころに花が咲く感じがしますが、これは人間がそう思うだけで、雑草自身はこのサイクルで毎期種の生存を続けています。ビジネスマンにもこのマインドを持って次の期へバトンをつないでいく努力が要請されます。常にこの準備をしていく必要があります。
ビジネスマンの生き方
ビジネスマンにも多様な生き方があります。大木として生きる、雑草として生きる。どちらを選択するかは、もって生まれた運命、置かれた環境、能力等色々影響すると思いますが、最後は、本人の考え方次第です。どちらが幸せか、これも自分の生き方をどう全うできるか否かにかかっています。この瞬間の積み重ねではないでしょうか?
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