園山征夫のビジネスコラム 園山征夫のビジネスコラム 園山征夫のビジネスコラム

人材育成 / 折々の言葉

日本人の精神性(1)

Posted on 2013-07-11

 実は、前回コラムで紹介した二宮尊徳や上杉鷹山等の生き方に私が賛同できるのは、彼らの経営改革姿勢の背後に深く流れる日本人の精神性のどこかに共感するものがあるからかもしれません。

大和こころ

 これを「大和魂」と呼ぶことがあります。「大和こころ」も「大和魂」も、誰の耳にも良い響きを持ちます。そもそも何でしょう。

 この言葉を最初に使ったのは紫式部であるといわれています。源氏物語の「乙女の巻」には漢才-当時の中国の学問を学んでこそ大和魂は重んぜられるという表現があるようです。

 平安時代に用いられたこの言葉は、漢学に代表される外来の知識人的な才芸や技法に対して、日本在来の伝統的知識、生活の中の知恵、教養を言ったとされます。漢意(からごろも)に対して作為を加えない自然で清純な精神性を言います。

 「大和こころ」は、戦中、戦後は軍国主義的にみられていましたが、これは政治的に利用されただけで、大和こころの本来の精神性の意味は変わりません。

 我々日本人のこころのどこかに日本の伝統を重んじ、二宮尊徳や上杉鷹山のように民のために一身を投げ出すという少し教条的ではありますが、自然で清純な気持ちが潜んでいるのではないでしょうか。私の心にも同様な精神性が潜んでいるように思います。

忍耐と自己鍛錬をする心

 日本人は自己を磨く、そのために耐え忍ぶ性癖を持っています。この過程が自己鍛錬のやり方として象徴的に表現されることがあります。

 自己鍛錬の例は、優れたスポーツ選手の事例が沢山挙げられています。「イチロー」選手など優れた野球選手がバッターボックスに入るまでを見ているとわかります。本人のしぐさや自分のゾーンに入る精神統一などを観察すると、その人の心の一面が見えるほどです。

 あるレベルを超えるための自己鍛錬のから取得した精神統一法だと思われますが、われわれ日本人の精神構造に忍耐と自己鍛錬の仕組が組み込まれているということかもしれません。レベルは違うとしても、私自身も同様な精神構造を共有していると思えることがあります。

鎮守の杜と自然信仰

 田舎にある鎮守の杜を訪れたことがあると思います。一歩足を踏み入れた時の冷厳でな気持ちや畏敬の念、自然への尊敬の心は、私のみならず大半の日本人の中に潜んでいると思います。

 日本の首都、東京のど真ん中に江戸城という広大な自然林が残っていることを我々日本人は何の疑いも持たず普通に思っています。ヨーロッパの首都の真ん中に広場と教会がセットであるのとは大きな違いです。日本人は山川草木あらゆるところに神が宿ると考えています。古来日本人が抱いていた自然信仰と関係があるかもしれません。

 自然界のどこかにいる神への畏怖の念を私も鎮守の杜で抱きます。

 しかもこの時の自然に向き合う姿勢は対決でなく調和です。人間相手でも共存する手法を取ってきました。武力でなく言葉で服従を誓わせ平定する国譲りの記述も古事記にあるほどです。

「おかげさま」という感謝の気持ち

 私自身「おかげさまで」との言葉をよく発します。別に意識しているわけではありません。自然に出るのです。

 心学の開祖、石田梅挙は「先も立ち、我も立つ」と、利を共にする思想を説いたと言われています。「おかげさま」という感謝の言葉、直接何かをしてくれたわけでもない相手に感謝する気持ちは、この辺から生まれたかもしれません。

 「おもてなし」の言葉もこれと関係があるのでしょうか?日本人が非常に大切にしたい言葉と考え方の一つで、「利他」と通じ日本人の底流に流れている精神性の一つと位置づけています。

包み込んで同化させる大きな心

日本では古来海外のいろいろなものを同化してきました。この日本に、百済から仏教が入ってきました。自然信仰の古来の日本に仏教を導入し、そこから沢山の知恵を学びこれを包み込んでしまいました。

 神仏習合です。

 日本の宗教は神か仏でなく、神も仏もいるととらえます。多神教というより汎神教です。英語という言語もジャパニーズ・イングリッシュとして、日本的なものに手直しした部分が相当あります。外国からの知恵も同化させました。

 日本人の精神性の具体的な例として、七福神と風呂敷をあげる人もいます。

 七福神のえびすは日本古来の神様です。毘沙門天、弁財天はインド起源の神様、大黒天はインド由来の神と日本の大黒様が習合したもの、福禄寿と寿老人は道教の神、布袋は中国の和尚と言われています。この神様達の源は違うとしても、彼らを一緒に宝船に乗せて福の神として崇めまつっています。ただし、日本人はなんでもとり入れたわけではありません。儒教はいれましたが、孟子の革命思想は入れませんでした。宦官や科挙も入れていません。

 風呂敷に包みこむにあたってもきちっと取捨選択をしています。欧米各国に行くと、この風呂敷のように、中味に変えて変幻自在に包み込めることの発想の優秀さも感じるところです。これもある種の精神性とみなしてよいかもしれません。

Related Posts

 

Comment





Comment