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時代認識

国家とは何かを考える(2)

Posted on 2014-06-26

前回の続きです。

 

国家権力と官僚と税金

 我々が教科書で学んだ通りであれば、太古の昔には、人間が誰の指示もなくある場所で生活していたはずです。ところが、ギリシャやアテネを中心とした都市国家が形成されてから、国家が国民を束ね、国家としての機能を果たすようになってきました。国家にはいろいろな機能があると思います。

 どこかの首相がよく口にする言葉、すなわち、「国民の生命と財産を守る警察機能」、「他の国家からの脅威から守る安全保障のための軍事機能」、「社会保障を充実するための所得再分配機能」などです。全くその通りで、どの国家機能をとってもそれぞれ大事に見えます。しかし、これらの機能が組織と結びついて権力となり、膨大な国家権力が構成された時点から問題が複雑になります。

 この国家機能を運営する役割を果たすのが官僚です。果たして彼らが国民のためにという高邁な思想をもって仕事をしているのか否か、いろいろな事件がある度に私は考えさせられます。権力を維持するための財源を、我々国民が支払う税金の収入等でカバーしているにもかかわらず、何故官僚がこんなことをするのだろうと思うことが多数発生しています。

 もう少し直截に、自分の税金が特定の官僚のA氏を喰わせていると考えてみると、官僚のA氏の働き振りに無関心ではおれないはず。ところが、マクロで国民という言葉で集約され、マクロで官僚と称するとこの感じが薄れ、税金の配分と官僚のサービスの関係が分離されてしまうから不思議です。国家権力や官僚組織にまったく無頓着になりやすいのです。 A氏が国家や国民にしっかりサービスをしているかを監視する機能が、個人として働きにくくなってしまいます。

 国家の側からすると税金の徴収、この管理のために当然官僚が必要であるという大義名分があります。自分の給料を払ってくれる誰かが必要なことも事実です。しかし、国民の側からすると、先に述べたように自分が特定のAさんという官僚の給料を払っているという厳然たる事実を直視すると、国民と国家の関係で、その人はAさんに違う感情を抱くと思います。勿論そういった感覚が出ないように官僚は上手くやっていますが、その人は国家や地方自治体から、我々が支払う税金に相当するサービスを受けていないと感じたり、その事業は全く無駄ではないかと肌感覚で感じるからではないでしょうか。

 

無駄と思える税金の配分

 長崎県、有明湾諫早の干拓事業に関係した排水門についての最近の判決。長崎地裁は「当面そのままに」。また、佐賀地裁の一審判決を支持した福岡高裁は「5年間排水門開放」の判決。

 この、門を開けない、開けるについて、裁判所によって異なる判断が下されています。しかしいずれにしても、判決を履行しない場合の制裁金に、間接的に国民の税金が充当されることになります。自然な海流に任せ、これまでに排水門の壁など人工的なものを造ることに、この予算を配分していなければ国民の税金が浪費されなかっただろうに、とも思いたくなります。政治権力や官僚の誰がこんな無駄なことをしてくれたのか。

 島根県と鳥取県にまたがる宍道湖・中海の干拓淡水化のために、1963年から39年間行った、海水をせき止め干拓して宍道湖を淡水化する事業も、先の例とほぼ似たものです。海流の流入により、沢山の貝類が育っていた汽水湖の宍道湖では、せき止めの護岸工事でヤマトシジミがほぼ絶滅するなどの水質汚染を招き、自然環境が破壊されてしまいました。

 この工事は2002年に中止されましたが、これまで国民の税金を851億円も投入した挙句の中断。この干拓事業をやる意味がどこにあったのでしょうか。政治権力や官僚の誰が、この工事に予算を配分してこんな無駄なことをしてくれたのか。この明確な失敗の責任を誰が負ったのか全く不明でうやむやの状態。国家権力の在りようを模範的に示している悪しき事例ではないでしょうか。

 

違憲状態という不思議

 一人一票の投票の価値に照らして、先の国政選挙が「違憲状態」との最高裁判決。

 この判決が出ているのに、違憲(状態)で当選した国会議員が国民の税金を配分する予算の審議をしているという、何とも不可解なことが現実に起きています。

 これが会社なら、これが一般個人にかかわることなら、どうなるのでしょうか。法に反して何かをしでかしてしまったのに、違憲(状態)だけど、会社も個人も何の咎めを受けないことにはならないはず。法治国家で、憲法に照らして最高裁の判決に対してまで、国家権力がここまで跋扈して、一人一人の国民の主権が無視されてしまっている現状に、国家や権力とは何かを改めて考えさせられてしまいます。

 

正義とは

 コラムで結論めいたことを言うつもりはありません。しかし、一度権力構造が出来てしまうと、すべてが何となく流されてしまう不思議な傾向が発生します。 何が正義なのかの正当な判断軸が曖昧になりがちです。その最大なものが、国家や国家権力ということになるのではないでしょうか。

 皆様も一国民として身近なところから正義とは何かを見直してみては如何でしょうか、少しでも、国民が安寧に生活を営めるように。

 

 

国家とは何かを考える(1)

Posted on 2014-06-19

 私は最近、国家という得体の知れないモノが不思議に思えて仕方ありません。

 いろいろなところで国家の在り方が特徴的にみられる事象が発生しています。ウクライナなど国家間の紛争、官僚による、国民から集めた税金の特定事業等への配分、一人一票の国民の投票価値の毀損などの最近の事象に遭遇すると、一人一人の国民の意思や権利が、国の政治などの中で本当に反映されているのかを考えさせられることが多くあります。

 

国民と外交

 ウクライナをめぐる、ロシアとアメリカを中心とする7か国のここ数か月に亘る攻防。

 ウクライナという国家を維持存続させ、自国民の権利を守るために旧ウクライナの代行リーダーと、新たに大統領となったリーダーの必死に頑張る姿が映像に映し出されている反面、G7各国とロシアの首脳の交渉ぶりを映像で垣間見るに、両陣営の首脳ともウクライナという国家とその中に住んでいる国民のことを、どう真剣に考えて対応しているのかが全く見えてこないのが残念です。

 自国の利益をどう確保するかのみに判断軸の中心をおいて対応しているのではないか、という印象を受けるのは私だけでしょうか。「これが外交である」と言えばそれまでですが、これらの情報に接するたびに、国家とは何かということに素朴な疑問が湧いてきます。

 

祖国を愛する心と国家主義

 国家の中にはいろいろな民族がいます。○×民族や○○民族が住んでいて、社会生活を営んでいます。この民族は当然土着の風習や宗教を持ち、周囲の他の民族との折り合いをつけながら安寧に生活しています。

 何らかの時に、誰かがこの民族を、ある種束ねる目的で線引きをして国家を形作ってきていますが、これが物事を複雑にします。中の住民の意思とは関係ない理由で線引きされた国家の中に、特定の民族が属すことになることもあります。一つの国家の中に多民族がいる、また、一つの民族が多国家にまたがり、隣の国家との関係が上手くいっていない中で苦痛を強いられているなど、いろいろな問題も派生していきます。否、むしろこのような複雑な状態こそが現実の世界です。

 ここにこそ、それぞれの民族の自治と自由度を含めて住民の意思を尊重し、国全体を統治していく相当高度な政治的リーダーシップが必要とされています。愛国心のPatriotism(祖国を愛する心)があるのは当たり前としても、Nationalism(国家主義)の高揚を政治的に利用するリーダーシップは時代遅れだという認識を持たねば、この複雑な状況を統治するのは今や至難の業です。それほど国家のリーダーの時代認識、さらに、仁徳と力量が要求されます。そうでない場合、統治される国民の側からすれば、彼らが国家の中に含まれるメリットを全く享受できないか、時には有害にすらなるかもしれないからです。

 

国家のリーダー

 にもかかわらず、一部の国のリーダーは、19世紀から20世紀初頭の頃の帝国主義国家のリーダーになりつつあるのではないかと、私には映ります。国民のナショナリズム(国家主義)を鼓舞して領土や領海の覇権を競い、海洋を含む世界地図の分捕り合戦を再度展開している有様です。当然の流れとして、国民という土着の民族の安寧等はどこかに飛んで行ってしまっている状態です。

 このように、中に居住する国民の生命・財産が危うくなると、国民の心理は、「強い国家の庇護のもとにいるのが安全」という方向に靡きがちです。国民はそのような強い国家の国民になりたいという錯覚も抱きます。

 しかし、世の中、そんな余裕のある国は数えるほどしかありません。しかも、それを長年維持できる力を持った国などほとんどない状態です。とすると、軍事的に強い、弱いという判断軸で国家主義のもとに国民を愚弄するリーダーの戦略は、それぞれの民族や国家の維持発展のためには全く間違いであることに、一部の国のリーダーは早く気づくべきであると思います。そうでない限り、民族を束ねる国家としての役割がますます疑問になってくるからです。

 

方丈記―今流の読み方(2)

Posted on 2012-12-13

すべてを等価で見る見方

 第二に私は、彼が伝統文化に僻み感を味わいながら、しかし、伝統にしがみつく朝廷・貴族と苦しんでいる一般人民をほとんど等価で見ていることにも注目しています。無常観がそうさせたのかもしれません。

 源氏物語の伝統を引き継ぎ、和歌などに代表される現実と遊離した伝統文化を必死にささえる宮廷や朝廷などの閉鎖的文化。驚きは、この伝統を哀れみの目で見ながらも為政者の被害に遭い今晩の飯に困る一般人民と全く等価に見ていることです。

 京都の伝統文化の息苦しさを味わわなくて済む一般人民の方に若干寄り添った見方をしながらも、両者をある種等価に見ざるを得なかったのか、世捨て人の見方が参考になります。

 今の時代、一生懸命に生きる姿勢の中で、一部諦めの境地からかすべてのことを斜めに構えて見る姿勢と比較して、良くも悪しくもすべてを等価で見る彼の見方も参考になります。

自由な境地と裸の自分

 第三に、自由な境地を活かして裸の自分を信ずる力強さが特徴的であることです。京都という世の中を捨てたからかどうかわかりませんが、ある種の居直り、開き直り的なところがあり、それが彼の強さになっているところが参考になります。

 彼は晩年、京都から鎌倉に上京して、時の将軍、藤原実朝に何度も会っていたと言われています。平安時代から、関東武士の新しい時代理念を持った鎌倉時代に時が移り、次の新しい時代に期待したのかもしれませんが、この鎌倉時代も和歌から刀の時代になっただけで、彼が期待したような時代ではなかったようです。彼は歴史が変遷しながら崩壊していく姿を見てしまいます。

 このことがあったからか、姿こそ僧侶の彼が方丈記の中に心のどこかで浮世の欲望を残しつつ、阿弥陀如来にも完全には期待していない姿を披瀝しています。ある種の開き直りにも見えますが自由な境地で、裸の自分を信ずる力強さを垣間見る感じがします。また、世捨て人とは言え世俗的なところも見え、なんとなく近寄ってみたくなる人物に見えませんか?

最後に凄みを持って一言

 でも鴨長明の人間としての凄さが伝わるのは、方丈記の最後の部分です。これはぜひ参考にしたいものです。

 「時に,建歴のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にて、これをしるす」と、バサッと終わってしまいます。桑門とは僧侶のことで蓮胤とは鴨長明の法名です。

 この終わり方に、彼の人間としての凄さが現れています。ほとんど無職の一生。でも知識人として時代の変わり目、伝統の怖さと庶民の抵抗の弱さを明確にわかっている。わかった上で時代に溺れて時代に流されている人々にひとこと言いたいという彼の心境なのだと、私はみます。

 この最後の一行で、全体を読んだ人に大きな沈黙が生まれます。晩年彼が住んだ方丈の四畳半の小さな庵の中で筆を取る彼の姿が見えてくる感じがします。

 追伸:2012年10月、頭の毛の一部が瑠璃色をしたゲラの一群が、目の前で地上に落ちた種子を啄む姿を見ながら山の中でこの本を読み直し、鴨長明の「方丈記」に新たな印象を持ちました。

 

方丈記―今流の読み方(1)

Posted on 2012-12-06

「ゆく河の流れは・・・」

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しく止まりたるためしなし。世の中にある人と住家と、またかくの如し。」で始まる方丈記は、現在の世の中にも非常に含蓄に富んだ内容を持った随筆だと思います。

 今の時代の生き方として参考になるところがあるかもしれませんので、私流の読み取り方をここに紹介します。ご存知、方丈記の紹介です。

四畳半の栖に住むにいたった鴨長明の人となり

 「方丈記」は平安時代の末期、800年前に鴨長明によって彼の晩年に書かれたものです。彼は中世の知識人とでもいえば良いでしょうか?歌人で神主の息子でした。筝、しちりき,笛、琵琶、琴など音楽も得意としていたようです。

 ところが福原遷都の2年前に父を亡くし、職もなく今流に言うと失業状態が一生のほとんどで続いた人のようで、当時かなり高い競争率であった神社の禰宜の職につこうと後鳥羽院の紹介をもらい就職活動をしたのですが、これも上手くいかなかったそうです。

 結局、彼は晩年に世を捨て僧侶となり、山の中の方丈(四畳半)の移動式でコンパクトに組立可能な小庵で隠遁生活をするようになりますが、今の時代と言わず当時にあっても少し想像を超えた居住状態の中でこの随筆を書いたといえるのではないでしょうか。

 方丈の庵を造るに至る経緯を次のように方丈記で記載しています。

 父方の祖母の家を引き継ぎ住んでいたが、これを持ちこたえられず30歳の時にその家を出て十分の一ぐらいの大きさの庵を造る。しかし、その庵は賀茂の河原付近にあり水害や盗賊回避のため引越し。40歳を過ぎた頃から自分の悪運を悟り、長明は元神主の家系なのに50歳でなんと僧侶に転向。

 出家して僧侶になる。家族もなし俸禄もなく大原山に小さな庵を作り5年住む。牛車2台でいつでも移動ができたぐらいの家財道具しかない身で、その後日野山に先ほど述べた移動式組立住宅の方丈(4.5畳)の庵を造ったと記載しています。多分バラックのような小屋ではなかったかと想像します。

 ご存知の通りこれが方丈記の題名の由来です。晩年、京から鎌倉を訪問した後、数年後この日野山の庵で方丈記を一気に書いたようです。かなり山の中ですが、春には藤の花を見、夏にはホトトギスを聞き、秋にはひぐらしの声を聞く。冬には雪を憐れむと書くほど、この草庵では風流な生活を送っていたようです。

厳しい時代背景の中で生きる人の気持ち

 「方丈記」の中で私が注目していることがあります。第一に、時代の変化に対する彼の観察眼の鋭さです。現場に密着して取材をする記者風の彼の観察眼から素晴らしい景色が浮かびます。

 23歳頃に大火災に遭い、25才頃には平重盛の治世下、世が乱れ、28歳の時に京都が竜巻に会い、29歳の時に大飢饉。世の中も京都から福原への遷都騒ぎ、33歳の時に京都に大地震が頻発、という平安時代末期の大変な時代に生きた人物です。

 皆様が生きてきた今の年代と比較してみでください。

 なんでこんなにと思うほど世の中が乱れています。自分が生きることが精いっぱいで、とても他人の不幸に対して救いの手を差し伸べられる余裕すらほとんどの人に無かったのではないかと思える無常観あふれる時代背景です。

 「方丈記」には、平安時代という400年続いたひとつの時代がガラガラと音を立てて崩壊していく様を目の当たりにし、また数々の天変地異などを経験した描写を通じてこの時代が象徴的に描かれています。個人は不安を横目で見ながらも、体制や歴史は本人と全く無関係に変な方向にどんどん動いていく様を彼自ら体で感じていることが読み取れます。まさに時代の変わり目を鋭く観察・描写しています。

 この描写を読んだ時、私にはここ10年間余のいわゆる「失われた時代」に育った最近の若者の残念な境遇や時代認識とダブって見えました

 彼らは物心ついた頃から物価が下がる、給料が下がる時代を生きてきました。時代そのものがデフレです。職がない、今日より明日が悪い、親の時代より時代がどんどん悪くなっていく、鴨長明が生きた時代は、今の時代背景の認識と共通なところがありそうです。自分を守ることすら大変な状態で、他人のことに対して主体的な責任を持ちたくても持てない、残念な時代に置かれた今の若者とダブリます。