園山征夫のビジネスコラム 園山征夫のビジネスコラム 園山征夫のビジネスコラム

折々の言葉 / 時代認識

方丈記―今流の読み方(2)

Posted on 2012-12-13

すべてを等価で見る見方

 第二に私は、彼が伝統文化に僻み感を味わいながら、しかし、伝統にしがみつく朝廷・貴族と苦しんでいる一般人民をほとんど等価で見ていることにも注目しています。無常観がそうさせたのかもしれません。

 源氏物語の伝統を引き継ぎ、和歌などに代表される現実と遊離した伝統文化を必死にささえる宮廷や朝廷などの閉鎖的文化。驚きは、この伝統を哀れみの目で見ながらも為政者の被害に遭い今晩の飯に困る一般人民と全く等価に見ていることです。

 京都の伝統文化の息苦しさを味わわなくて済む一般人民の方に若干寄り添った見方をしながらも、両者をある種等価に見ざるを得なかったのか、世捨て人の見方が参考になります。

 今の時代、一生懸命に生きる姿勢の中で、一部諦めの境地からかすべてのことを斜めに構えて見る姿勢と比較して、良くも悪しくもすべてを等価で見る彼の見方も参考になります。

自由な境地と裸の自分

 第三に、自由な境地を活かして裸の自分を信ずる力強さが特徴的であることです。京都という世の中を捨てたからかどうかわかりませんが、ある種の居直り、開き直り的なところがあり、それが彼の強さになっているところが参考になります。

 彼は晩年、京都から鎌倉に上京して、時の将軍、藤原実朝に何度も会っていたと言われています。平安時代から、関東武士の新しい時代理念を持った鎌倉時代に時が移り、次の新しい時代に期待したのかもしれませんが、この鎌倉時代も和歌から刀の時代になっただけで、彼が期待したような時代ではなかったようです。彼は歴史が変遷しながら崩壊していく姿を見てしまいます。

 このことがあったからか、姿こそ僧侶の彼が方丈記の中に心のどこかで浮世の欲望を残しつつ、阿弥陀如来にも完全には期待していない姿を披瀝しています。ある種の開き直りにも見えますが自由な境地で、裸の自分を信ずる力強さを垣間見る感じがします。また、世捨て人とは言え世俗的なところも見え、なんとなく近寄ってみたくなる人物に見えませんか?

最後に凄みを持って一言

 でも鴨長明の人間としての凄さが伝わるのは、方丈記の最後の部分です。これはぜひ参考にしたいものです。

 「時に,建歴のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にて、これをしるす」と、バサッと終わってしまいます。桑門とは僧侶のことで蓮胤とは鴨長明の法名です。

 この終わり方に、彼の人間としての凄さが現れています。ほとんど無職の一生。でも知識人として時代の変わり目、伝統の怖さと庶民の抵抗の弱さを明確にわかっている。わかった上で時代に溺れて時代に流されている人々にひとこと言いたいという彼の心境なのだと、私はみます。

 この最後の一行で、全体を読んだ人に大きな沈黙が生まれます。晩年彼が住んだ方丈の四畳半の小さな庵の中で筆を取る彼の姿が見えてくる感じがします。

 追伸:2012年10月、頭の毛の一部が瑠璃色をしたゲラの一群が、目の前で地上に落ちた種子を啄む姿を見ながら山の中でこの本を読み直し、鴨長明の「方丈記」に新たな印象を持ちました。

Related Posts

 

Comment





Comment