


折々の言葉
第160回 日本人の精神性(2)
先週の続きです。
2.神道というある種の道徳観
次に、一部の方々には少し違和感があるかもしれませんが、神道というものについてふれます。
ヨーロッパの町づくりを見ると、中心地に広場があり、そこに教会、一般的にキリスト教会が権威の象徴のごとく聳える姿がどこでも見られます。今いるここプラハの美しい町でもそうです。
日本の風景と明らかに違いがあり、「そうだ。神道こそ日本独特のものだ」と、これについて今日書きたくなりました。
神道は生活道徳か
ご承知の通り、キリスト教などに比して、我々日本人が信仰していると称する神道は、教祖も戒律もありません。
この点で神道は、明らかに西洋人が考えるような宗教とは違うのではないかと考えます。少なくとも、明治維新後の一時期に国が神道を国家宗教として指定するまでは、西洋人の崇拝する宗教とは全く違ったものではなかったのではないでしょうか。
神道は縄文時代以来受け継がれてきた固有の道徳とも呼ぶべきもので、教祖も戒律もヨーロッパで信仰されている宗教のような排他的な教団もありません。少し乱暴ですが、以下に述べるように、ある種日本人の心の底にある信仰をベースとした道徳観と考えてはいかがでしょう。
自然環境
そうなった背景があります。
よく言われる通り、日本ではブナやナラ等栗系の林の中で、果実が実る森林が形成されていました。この自然を大切にする縄文時代の信仰が、日本人の心の形成に影響しているのではないでしょうか。
縄文人は、人も動物も死後は平等でした。魂が集まったものを神様と考え、多様な魂を祭る習慣があったと、ある本に記載されていました。出雲で生まれた私は、自然の中でのこの平等感が非常によく分かります。鎮守の杜に行くことで、心清らかな感じを抱くのもよく分かります。
弥生時代に入り日本人が水田の畔に集落を営み、米という安定的なものを手に入れるようになると、狩りを行う必要がなくなりました。ヨーロッパの平坦な森林の風景の中で狩猟を行うのとは、明らかに違う状態が発生しています。田んぼの横に祠のようなものを祭ってある風景も、私の記憶のどこかに潜んでいます。稲作を始めた祖先に感謝する、稲の生育に感謝する、災害から稲作を守ってくれるように祈願したのでしょう。また、仏壇やお墓などで祖先を供養します。人間は亡くなると精霊、つまり神様になると彼らも考え、祖先を祭ったのではないでしょうか。
このように稲作中心の営みの中での日常生活の線上に、教祖も戒律もない信仰があったと思います。
日本の統一に果たした役割
時代が経て、出雲の国を含め大和の国を治める時に、少し信仰の形が変わりました。大和朝廷が国を治めていくことになり、この時、天照大神の意向を受けて国民を導く世襲の指導者を置く方法で、個々の集落を組織化し最終的に日本を一つにまとめたというのが通説です。大和朝廷はほとんど武力を用いず霊の信仰、つまり神道を広める平和的な手法で国家の統一を果たしたかもしれませんが、縄文、弥生時代を経た信仰の本質は変わっていません。
以上の過程を見ると、教祖も戒律もない神道は縄文や弥生時代の環境に原初をもとめ、宗教と言うより当時の日本人が置かれた環境下で安寧な生活を営む上での道徳観であると言っても過言ではないと思います。
宗教学者のフスや当時のボスニア、ザクソン、バイエルン、ポーランドからの俊英が学んだヨーロッパ最古のカレル大学のあるプラハのこの町で、日本の神道のことを考えるのは感慨深いものです。
第159回 日本人の精神性(1)
只今、家内と共にオーストリアにいます。
今回の旅行にあたり、ゴルフ仲間の椿さん、五味さんから、「ハプスブルグ王朝の歴訪ですか」と半分揶揄されていますが、ある意味で当たり、中東欧州の歴史を現場研修するつもりです。彼らの歴史や文化との比較において、日本人の精神性を一度振り返ろうと思います。そのため高校時代に受験のために学んだ世界史を、再度少し予備学習してきました。
以前、このコラムで日本人の精神性について触れたことがありますが、今回は、日本人の精神性を表わす特色について数回に渡り述べさせていただきます。
1.和の心
今回はまず、「和の心」について述べます。
自分のことは後回しで、他の人のために働く
東京オリンピックの誘致の時、日本人が持つ「おもてなし」のサービス精神を、誘致委員会が世界に打ち出し成功しました。
私は、日本人が古来持ち続けている大事な精神性の一つとして、「和の心」があると考えますが、これは「おもてなし」をも包含するものと思っています。
和とは自分のことは後回しとしてまず仲間のことを考える、仲間のために働こう、サービス(おもてなし)しようということではないでしょうか。私の母や家内を見ても、何も考えずに家族や友人のために、その通りの行動をしている様子を見るにつけて、これぞ日本人の持っている優れた精神性の一つだと誇りに感じます。
また、このことを日本人は正しい生き方と信じていると思います。
闘争の歴史
オーストリアの隣国の東欧スラブ系の国々や西欧ゲルマン系の国々でも、地域によっては「和の心」と同様な精神性を持っているかもしれません。しかし、総じて言えば、やはり、日本人の持っている精神性はヨーロッパの国々に比して特色あるものだと思います。
この和の心と対照的なのは、ヨーロッパの中世の歴史、特に12世紀以降の歴史、領主や支配者たちの闘争の歴史です。それは、彼らの風土や歴史の産物とも言えるところがありますが、ある意味でアメリカ人やロシア人にも共通します。
痩せた土地、平坦で長い河が流れ交通に便利な地形。したがって、食料や良い場所を求めて民族が移動して激しい闘争が発生し、結果としての併合、分割が起こりました。イギリスとフランスなどでは1339年から1453年までフランスのカペー朝の王位承継でもめ、100年間戦争をした歴史さえあるほどです。このような闘争環境下で数千年生きて鍛えられると、マキャベリが『君子論』を著わした時代ほどではなくとも、今もヨーロッパの人びとの人間性には、自分のことを優先して考える心が活きている部分が多いと思います。
災害に直面して
翻って、日本での出来事を思い起こしてみます。
東日本大震災のあと天皇皇后陛下が避難民を訪問された映像を、私は鮮明に覚えています。確か、皇后陛下が「生きてくれてありがとう」と、お声をかけられたシーンでした。
親族間で投げかける身内の言葉です。自分のことより、まず仲間のことを最優先に考えるこの発想は、皇室のみならず一般の日本人にも古来引き継がれている「和の心」を象徴しているのではないでしょうか。
また、東日本大震災や先の伊豆大島の不幸な災害を映像で見るに、他の国で発生したこのような事態での映像と明らかに違いがあることに気づきます。日本では、このような大変な事態に直面しても、自分より他人や仲間のことを心配している映像を見ます。しかも、それが何か特別なことをしているという感じが全くなく、自然に出ている姿です。
自分より仲間のことを考える、この心こそ日本人の精神性の一つです。
第158回 人生を豊かに生きる
新しい技術進歩の中で、私などの年齢層では人々の振る舞いに戸惑うことが最近多くなりました。常時スマホを離さない人が驚くほど多くなっています。電車の中を見回すと、車中の7割以上の人が乗車するとすぐにスマホを取り出して、何をするともなくそれを見ている光景が日常的になりました。
どこかの大学の学長が新入学生への挨拶で、「スマホを捨てますか?それとも当大学の学生を捨てますか?」との主旨のことを述べたと報道で伝えられ、学生のスマホ利用に警鐘を鳴らすほどになっています。
どうしてでしょう。そんなに情報が欲しいのでしょうか?それとも、そうしないと安心感が持てないからでしょうか。
知恵と直感力
新しい情報に遭遇する喜びは分かります。他方、時間をこのように使って、これで自分の人生の豊かさを感じられるか、私には大いに疑問です。
情報が入りすぎてこれを料理するのが大変だと感じます。本来人間は、自己の内なる知恵を働かせて、自ら考えて世の中の諸事象に的確に対処できる動物のはずです。しかも、この中にこそ本当に「生きている」と感じるカギがあるはずです。
知恵と直観力です。この状態を味わうため、時には、スマホから離れて自然体になるのも必要ではないでしょうか。現代文明から離れて、自分の五感が働く環境に身をゆだねる経験も楽しいものです。
私は、時々人里離れた山の中に入り、風の音、夏草の臭い、動物の啼き声、鳥のさえずりなどを肌で感じて、情報や技術の奴隷にならない努力をしています。スマホも利用しない、それらに気をそらされない、その中で普段見逃しているものを五感の力で探りあてる喜び、直観力や感性の豊かさに身をゆだねる生き方です。
金と権力と成功
何故、そのような生き方が普通でなくなったのでしょうか?それは、成功イコール金と権力であるとの大方の考え方と関係しているように思います。
このような考え方は、少なくとも今のアメリカや一部の国では一般的な考え方かもしれません。数十年前にアメリカで新自由主義派が台頭し権力を握り始めてから、この傾向が強くなりました。
その結果、富めるものと貧しい者との格差が大きくなり、また、富める者は更に富を蓄積するために家族の犠牲を顧みず寝食を忘れて働きつめ、時には理性を忘れて賄賂の罠に嵌っても冨の蓄積に貪欲になる残念な行為を見ることになりました。これらの習慣や行為によるストレスや鬱は今や社会問題化していると言っても過言ではありません。
上記の傾向に対して、私は人間の成功は、いかに誠実に生き、他の人からの信頼を得るかだと考えています。
このことは別項で述べましたので詳細は省略しますが、アメリカ流の成功の考え方や生き方が本当に幸せなのかを、今こそ国民全体で真剣に考える良い時期かもしれません。
新自由主義派の影響で、日本にも成功イコール金と権力であるとの考え方が浸食してきていますが、私は何とかこの傾向が極端になることだけは食い止めたいと考える一人です。
生き方
個人が自ら、人生の生き方をもっと深く考え問い詰めてはどうでしょう。学校でもそのような教育を早い段階でやるべきです。
先のこと、将来のことを心配するよりは、今生きていることの幸せに重点を置いて発想する習慣づけです。カネや権力は一時の物で、持続できません。それよりは、毎日、その時間、目の前のことを一生懸命に生きることに集中する方が幸せに近づくように思います。
施す
自分で心が豊かになり幸せ感を抱く体験の一つは、施すことだと私は考えています。与えることで、自分の心が豊かになるように感じます。
私自身、あるゴルフクラブの自主再建のために、今後の事業施策を立案ことなどにこれから努力をするつもりです。経営の健全化を図り、若い方々が、自分が関係するクラブに誇りを持ち、クラブライフをエンジョイできる環境を作るために、私のこれまでの経営経験の知恵を施せないかと勝手に考えています。この役目はまだ走り出したばかりですが、常に、何かを手に入れることのみ考えて、カネと権力を持つ経験がいかに心の豊かさから程遠いかを、これまで見聞・体験して知りました。これぞ生きるに値する方法かも知れません。
今を大切に
この生き方は普通の生き方、すなわち、他の人の動向、氾濫する情報などに阻害されず、自分の内から湧く創造性を大事にできる生き方に通じると考えます。ストレスからの解放にもつながります。
何か他のことに心の平安が乱されることなく、心の内面が平穏になり、心のスペースが広がる生き方だと思います。私は瞑想をしますが、静寂の中で心と仲良くできる心境を味わいます。ゾーンとまでは言いませんが、少なくとも心の安心感が抜群な状態です。また私は茶室の中での静寂が大好きです。自然の中に心が向き、創造力が豊かになるような感じを抱きます。
先や将来のことのみ心配せず、今あることを良しとして、あるがままの状態を如何に充実させるかを念頭に置いた生き方に努力をしています。
第157回 相関と因果の関係に上手く付き合う(2)
前回の続きです。
ビッグデータの相関処理vs.因果の実験
そうは言っても、現実に誰かが沢山の情報を生み出していますので、企業側もビッグデータを処理せざるをえなくなります。ここで予測との関連で思うことがあります。
最近、あらゆるところでビッグデータの利用が始まっています。ある種の流行です。ここで我々が留意しなければならないのは、この分析は因果でなく相関をもとにした分析であることです。相関はデータの組み立て方、何と何を比べるかによって変化することです。
従って、意味のある相関と意味のない相関との区別をする必要があります。それには何が何を起こしているのかの、因果を仮定し検証しないといけないことが多いはずです。
これに比較して、実地の実験では、ビッグデータより深い所まで手が届くメリットがあります。画期的な細胞を発見したと称したSTAP細胞の事件も、論文に掲げるケースを実際の実験を繰り返して、因果の関係に嘘があることが立証されたと推測します。このように因果関係について良く考えをめぐらせてから実験で頼りになるデータが得られれば、結果に至る本当の原因を探ることに役立ちます。
相関分析だけでなく、実際の実験の重要性も同時に認識しなければなりません。
データを読むセンス(感性)
また、統計解析に振り回されず、データの本質的な意味を見極める力を養わなければなりません。データは同じものでも、見方により違う見え方をすることが多くあります。
マーケッターに一番求められている力は、実はこの部分です。出てきたものが「何か違う、何か異質な臭いがする」と、感じるセンス(感性)があるか否かです。先週述べた格付け会社で予測をした担当者のケースでは、現実起きていることと出てきたものが何か違う、何故だろうと感じるセンスです。
限界の認識と学び
このように、ビッグデータの相関をもとにしたモデルでは、あくまで相関関係に基づいた分析です。人間が何故その行動を起こしたかの因果の分析ではなく、現実を十分に捉えきれない限界があることを肝に銘じるべきです。
あるゴルフ場では、ビジター顧客の増大で営業数字を上げるためにコンサルティング会社に手数料を支払い、ネット経由のビジター割引制度を数年前に導入し、顧客数の増大と売上の増加を図ってきました。そして一定の成果を上げてきました。
しかし、果たして、諸々の目論見通りになったか否かをそろそろ検証するにあたり、これをデータの相関関係で分析するには限界があると考えます。意味のある相関と意味のないそれとを峻別するのが難しいと思われるからです。
割引率との関係で、新規顧客は来場したが常連の顧客は来ていない、というデータがもし出てくるとすれば、クラブにとってこのゲームは長続きできないことを物語ります。極論すると、その方法だと永久に割引率を高め続けていくことになり、収入を量でカバーしようと定員オーバーでも来場させ、プレーがエンジョイできずに結果として来場者の減少し、クラブ経営の行きつくところが自明だからです。
何故プレーヤーが来場し続ける行動を起こすかを探るべく、ある程度の常連顧客が訪問出来るような導線を設けて、しかも割引率の上下も含めた各種要因の原因群が、ゴルフ場が本当に享受したいと思う結果になっているかの因果の関係を実験(トライアル)も含めて分析しなければならない論理となるのではないでしょうか。
相関分析による予測の難しさと地道な実験(トライアル)を含めた因果の関係の紐解きについて述べました。
第156回 相関と因果の関係に上手く付き合う(1)
予測するのは、本当に難しいことです。会社内でも相関関係をベースとした予測に基づいて、将来のことをもっともらしく議論したこともありましたが、実際は難しかったと言うのが偽らざる本音です。
ソ連の崩壊の予測
1991年、ソ連があっけなく崩壊しました。私は、相関分析をしたわけではありませんが、これを予測できませんでした。
西側との冷戦時代を知っており、1960年代に米国と対峙するレベルの力を保持していたソ連が、あっけなく崩壊するとは想像だにしていませんでした。専門家も「絶対に起こらない」と予測していたことが、二十数年前、現実に起きたのです。
マルクスは、資本主義が成熟すると、そこで崩壊が起こると説明していましたが、逆に本家本元のソ連が突然崩壊してしまったのです。
リーマンショックの予測
2008年のリーマンショックも一般の人からすると突然起きました。リーマンブラザーズの経済破綻に端を発した金融危機です。
この時も不思議なことに、専門家たる格付け会社が予測した債務担保証券は、向こう25年間でこの証券の不払い不能(デフォルト)が発生する確率は低いと予想していたと、事後報道の記事で知りました。現実には不払いが発生し、世界の金融危機の発端となりました。
予測の失敗は、適切なサンプルに基づいて予測をしなかったからと言われています。すなわち格付け会社は、住宅価格が上昇時していた1980年代のデータに基づいて向こう25年間を予測したようです。予測した時期には実際の住宅価格は下がり気味の状態だったのに、先行きも大丈夫とレポートした当時の予測者は、現実に発生したことをどう説明するのでしょうか。素人目にも如何なものかと思う予測の質です。
違う状況のサンプルデータに基づいて、局面が全く違う状況を予測した報告書の情報を鵜呑みにして、まだ大丈夫だとの判断・行動をした一般の人がいたとしたら、余りにも可哀そうです。
ノイズがあるのは事実だけど・・・
この批判に対して、予測する際はもっと不確実性を受け入れなければならないと、学者は言うかもしれません。すなわち、過去の住宅価格の状況のみから大胆な予測をするのではなく、データにノイズがあることを知り、現実に発生している今の局面をも包含する様々なアプローチを試みるべきであると。
その通りです。一つの事象を違う角度から考える必要性を理解し、検証する方法に慎重すぎることはありません。しかし、一般の人にはレポートの背景などほとんど分かりません。唯一分かることは、多くの課題は本来予測困難かもしれないとの単純な認識です。
我々一般人が世の中の情勢をみても、大半は意味のないノイズの情報ばかりです。そのようなノイズを、企業が大量に、シグナルとして世の中に発していることも理解しなければなりません。発信される情報が沢山あっても、その大半はノイズだとしたら本当は真実が増えているわけではないという単純なことを、我々は理解しなければなりません。
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