園山征夫のビジネスコラム 園山征夫のビジネスコラム 園山征夫のビジネスコラム

折々の言葉

人口の減少の怖さ

Posted on 2014-03-27

人口論

 学生時代に、人口論の講義を聞いたことがあります。日本の統計などをもとに、経済の成長と人口の増減の関係を研究されていた学者、速水融教授が、熱弁を振るわれていたことを覚えています。江戸時代の日本が世界でも類を見ない発展を遂げていたことの背景として、人口の増加と耕作地の増加が深く関係したこと等を教わった記憶があります。当時は、数式を駆使した経済成長論の新しいモデルが一世を風靡していた時代で、失礼ながら速水先生の話には、もう一つ気合がはいりませんでした。

 しかし、今考えてみると、速水教授は大変先見の明がある研究をされていたと脱帽です。

 

選択

 日本の今後のことを考えると、人口の減少は避けて通れない事実です。これをどう捉えるかは、もちろん国民一人一人の価値観にもとづいた選択の問題と関係します。

 一つの選択は、過去の成長の結果もたらされた資本蓄積を元にして、その資本を有効に活用する選択。フローの部分は、国民が耐えて節約していく生活スタイルをとる選択です。

 もう一つの選択は、フローの部分を重視していく考えです。現行の公的国民年金制度や医療保険制度は、実質破たんしている状態というのが私の解釈です。この社会保障費の一部等を、経済の成長がもたらす収入増で埋めていく考えです。一人の若者が、高齢者、特に、団塊の世代の2人ほどを支える構造になっているこの現実をどう打開できるか、若者が耐えられるか、否かです。

 私は、現実的には、資本蓄積を重んじながらも、一定の経済成長が無い限り、過去の資産だけで日本国が食べていくには限界があると思います。経済が成長するため、政府や民間でいろいろな手を打っていくべきですが、他方、人口の減少がいかに重要な課題であるかを、政治をはじめ国民全員が再認識し、これに具体的な手を打っていかなければならない時と考えます。しかも、これは時間の関数が重要です。早く取り組まないと、効果が出るまでの時間がもったいない。日本の将来の夢を早く描くことが政治家の大きな責務です。

 

経済と人口の増

 日本のバブル崩壊以後の「失われた20年」。前半の10年はバブル崩壊後のデフレ現象で、リーマンショック後、欧米も体験した現象とほぼ同じです。他方、2003年からの後半の10年間は、欧米各国の事情とは少し違いがあるかもしれません。日本の団塊の世代が人口構成グラフで大きな膨らみを示しているとおり、急速な高齢化と新生児が少ない人口の減少状態が原因との説もあります。

 何故なら、2000年から2010年頃を比較すると、ご承知の通り、日本はGDPでは先進国の中で最下位。ところが、一人当たりGDPで見ると一応他の先進国並み、労働人口一人当たりで見ると日本が高い。生産性は高いのに、人口の数が2003年以降大きく効いていたというのが、この考えの背景です。

 また、中国の今後の人口減をみても、人口の重要性が分かります。中国は2017年には米国に追いつくといわれていましたが、多分無理だと思います。ここにきてこの爆発的な投資ブームが失速し、景気が後退状況にあるからです。2011年の約9%のGDPのうち、政府による投資(インフラ投資)が5%牽引していました。この投資の大半が国有企業に流れ、一部の地方政府傘下の国有企業の債務返済が最近問題になりつつありますが、今後、投資の減の影響は甚大です。統計数字の信用性は別として、過去8~10%のGDP成長率を誇っていましたが、スローダウン。7.5%目標と当局から公表されていますが、5%ぐらいに下がるとの経済学者の見方が一般的です。仮に、5%で成長し、米国が2%で行くとすると、しばらく米国に追いつけない計算になります。

 成長率は、政府投資の減少にも増して少子化が影響します。人口の絶対数の影響が大きく成長率を左右します。生産と消費に関係してくるからです。統計によれば、日本の出生率が2011年に1.39%でしたが、中国の出生率は政策の影響が大きく、1.18%と言われています。このままでは、総人口がここ10年くらいでピークを迎え、生産人口も早晩ピークを迎えるといわれるほどです。

 勿論、人口の爆発的な増加は、これはこれで食料、環境破壊などの問題を引き起こします。地球規模で考えなければならない課題です。従って、単純な解決策はないとは思いますが、日本の人口が今のように減少していくことに対して、政府が本気で早く手を打っていかないと、日本の若者の夢を壊しかねないと危惧している一人です。

 

 

経営者の姿勢

Posted on 2014-03-20

 このことについて質問されることが、最近多くなりました。ベンチャー経営者や起業家に話す時、強調していることがあります。

 

人間のモチベーション

 極端に言えば、経営の合理化などは機械で出来ない部分が多いことを、私は経営を再建した時に感じました。機械化よりも、どうしたら人間が意欲的にモチベーションを高めて仕事をしてもらえるかを考えることが出発点、しかも、この方が遥かに経営上上手くいくことを体験しました。すなわち、人間を、社員をどう観るかに関係してくることです。

 

何のために働きにきているか

 現実問題として、働きに来ている人々は、それぞれ自分の生活をエンジョイする手段を求めて、その会社に来ている。この意識を経営者が外さないことです。企業や経営者のエゴのために社員が犠牲になってはならないという当たり前のことを、経営が実践しなければならないことです。社員には、生活を支える賃金と、仕事に最大限注力しているというプライドがあることを忘れてはいけません。しかも、単に、意識を言葉にするのみでなく、経営層による実践です。実践を伴わない言葉は百万遍発しても、社員に対しては無駄です。彼らは言葉では生活していないからです。彼らは、実践を通じた信頼、信用を基に仕事をしています。

 

信用、信頼

 このような実践を通じた信頼感を醸成していくのが、経営が上手くいく近道だと、最近指導しています。

 本田宗一郎氏が、「人生はカネと信用の天秤だ。」と言われたことが、何かの本に書いてあったことを思い出します。カネが欲しいと天秤の重りをカネの方に仕向けるのは可能。しかし、そうするとカネは増えますが、信用がガタ落ちになる。カネが欲しければ、むしろ信用を先にとる方が良いとの主旨の記載だったと記憶しています。さらに、両方を高めるには、天秤の支点をあげる。良く勉強して力を蓄えるしか方法がない、と。

 私の体験では、勉強は本からはもちろん、実際に見たり、聞いたり、トライしたりすることから生まれる知恵こそが決め手だと、思います。しかも、知恵は本気で考える時にしか、これが生まれません。

 この意味で、自分をどう磨くかが今の経営層に問われています。

 

 

戦略策定時の落とし穴(2)

Posted on 2014-03-13

前回の続きです。戦略策定時に陥りやすい落とし穴についてです。

 

一般的な教科書にしてしまうこと

 戦略には、一般的なマーケットの流れを記述しているのみで、自社にとっての重大な課題に取り組んでいないものが多く見られるものです。

 つまり総論のみ。しかも、どこの評論家も指摘している客観的な事実情報を、さも大事の事実として指摘するのみ。それと自社の事業が具体的にどうリンクして影響を受けるのかの接点部分にほとんど触れられていないことが多いものを見受けられます。このような戦略は、一回は学習する人の頭に中を通過しますが、「それでどうなの?」いう印象を与えてしまうもので、かえって戦略の焦点をボケさせてしまう。二度と頭の中に入らないものとなります。

 

絵姿の美しさに拘ること

 また、戦略の見栄えを気にしすぎて、数年後の会社の絵姿をあまりに理想形にしすぎてしまう落とし穴にはまることがあります。時折、その美しが、どこかの本からの切り抜きではないかと思われるようなものもあります。

 戦略目標として目指すものがあまりに非現実的になっているのです。本の知識からの思い込みが前のめりに出て、その会社の諸事情を見ずに、綺麗な絵姿のみを描いているものです。また、イメージを描けば何とかなるだろうという安易すぎる考え方からきている場合のものもあります。

 

部門の集計目標に成り下がること

 さらに、およそ戦略という代物とは似て非なるものもあります。その背景は、多分、戦略策定者の主体的な意思が明確でなく、全体構造が描けなかった帰結かもしれません。

 各部門からの計画を、表現を少し変えて網羅している状態で、部門計画の寄せ集めの状態。どの策を講じると会社としての成長・発展に早く近づけるのかの道標が全くなし。全体構造に基づく戦略道標のルート選択も反映されていないものです。

 この場合、部門の業績目標と戦略目標は違うのにもかかわらず、業績目標が戦略目標になりすますことが多くなり、会社として、戦略の形を整えたのみという不幸なことになります。

 

主体性が欠如していること

 「作れと言われたからつくる」的に戦略が形骸化したものが見受けられます。

 形式的には戦略の各要素が記載されていますが、少し見ただけで、およそ実行までやり抜く意思が全く感じられないものです。おそらく担当者が、よくある穴埋め方式のチャートか何かを利用し、その筋書きにしたがって、戦略テンプレートを埋め込んだようなものです。売上x%アップ、受注y%アップなどと他人事のように描かれ、なぜそうなるかの全体の構造が不明なまま、埋め込んだとしか考えられないものが見受けられます。

 最後に、戦略の成否は指標で判断するのがベストです。プランを修正しやすく特定の指標を管理し、それに基づいて判断をすることです。指標には、上がった、下がった、変化なしの三つしかないので、指標の管理さえ徹底されていれば、戦略が自社の修正行動につなげやすいものになります。

 

戦略策定時の落とし穴(1)

Posted on 2014-03-06

 皆様も、企画部門に配属されて戦略の策定に関係することがあると思います。その時に是非、配慮しておいていただきたいことがあります。この落とし穴にはまらないことです。

 

基本構造が脆弱なこと

これは決定的に大きな落とし穴です。戦略が十分な根拠に立脚した基本構造(核)をもっていない場合です。

 私の経験でも、この落とし穴に気づくことの重要性を、自分自身が樹てた戦略群を、今になって比較してみると、明確に認識できます。姿や形は少し幼稚でも、最初に立案した戦略において、基本構造が一番明確でした。会社が実質倒産の憂き目に瀕していたので、どう生き延びようかと必死で現状を分析して違いのある方向性を示し、実践しようと考えた時です。社員の生活も含めて安心させるための将来像を、本気で立案した時でした。

 その後数回、中期の戦略を立案しました。これらが会社の成長・発展に貢献する道標になったことは間違いない事実です。しかし、後の物は「何となく、恰好をつけている」部分が多くなってきたのを、今振り返ると感じます。外部の目などいろいろなことを気にしだしたことが一因かもしれません。

 私の戦略構成では、基本構造(核)は現状の分析、基本方針と行動の3つから成り立っています。まず、現状を分析して課題を特定することから始めます。私の場合は、現状を分析した結果、顧客のためにサービスの質を高めることこそ、最大の課題として明確にしました。

 次に、その課題をどういう方針でアプローチするかを吟味します。いろいろな未来を洞察し、自社のシナリオを複数描き、勝負する場所を合理的に選択、現時点で使える戦術をリストアップして、アプローチ方針を検討していくものです。P.ドラッカーは、「未来は知りえない。未来は、現在存在するものとも、我々が予想するものとも異なる」と、述べている通り、予測でなく仮説を立てて、アプローチを選択することとなります。

 更に、行動の一貫性が必要です。行動こそポイントで、上手くいかない場合、修正の起点となるものです。

 

自社の業界内に拘ること

 ほとんどの戦略が、外で起きていることの自社内への影響を考えてはいますが、意外に、この部分に重点が置かれていない。対岸の火事として安易に考えている場合が多いのですが、逆に、トレンドと最新動向を見据えて、ここに重点を置く戦略こそ、中期的に自社を救うものになります。業界の外で、すでに起きていることが自社に起きないかを自問自答することになります。「もしそれが起きたらどう対応する」と、企画担当が未来予想ゲームをすることになります。

 

専門用語を多用すること

 まず基本的なことですが、素人ほど専門用語や業界用語を多用しています。内実を伴わないものが多いことを立派に装う目的で、普通の社員が普段触れることが少ない用語で「煙に巻く」ものです。

 私も何回もこのことを、レビューする立場で経験しました。その時点では、「なんとなく立派なことを報告する部下だな。」と思うこともあったのですが、じっくり考えてみると、あまり本質的なことを言っているわけではなく、専門用語で内容のないところをカモフラージュしているのであるのに気づきました。本人もその意味を本当に分かっているか疑問なこともありました。

 それ以後は経営者の立場で徹底して、「難しいことを丁寧な言葉でわかりやすく説明するのが、本当のプロです」と、報告者に戒めていました。子供に分かりやすく説明するには、相当内容を詳しく知っていないとできないのと、ほぼ同じことです。

 

 

 

 

税金と公務員の日常的意識

Posted on 2014-02-27

  細かいことですが、役人や公務員の、パブリックサーバントとしての日常的意識と判断基準に関わることです。

 そもそも、政府筋から「財政の抜本改革としなければならない」という言葉が出る時に、国民は注意しなければなりません。この言葉の裏には、必ず税のアップという隠し玉が隠され、本来それ以前にやるべきこととして、政府の無駄使いに目を向けるべきなのに、必ず後者が置いてきぼりにされ、目くらましに遭い、「市民のために、国民のために、という言葉が空虚に聞こえる時があります。

 以前に話題になりましたが、福島の復興財源と銘打って、その資金を他の用途に、ましてやその一部を、役人の関係する施設などに気づかれないように上手く工夫して回していたというこの所作と、公務員としての姿勢について、国民が怒らないことのほうがどうかしているのではないかと思います。怒るのは、タックス・ペイヤーとして当然のことです。こんなことを見過ごしてしまう最近の日本人、全くどうかしているのではないかと思うほどです。

 

パブリックサーバントの反応

 私の自宅近くの公園を仕切っている、フェンスがあります。

 2012年2月中旬に、トラックか何かにぶつけられたのか、そのフェンスが5メートルほど公園の内側に傾いているのを発見し、「取り壊さなくて修復できそうに見えます。今のうちに直せば税金を無駄使いしなくて済むのではないでしょうか?」と、市役所の公園課に電話で伝達しました。

それから1週間後に市役所から電話がありました。「業者に調査させたところ、フェンスを押し戻すと、骨組みが折れる可能性があります。古いので新品に取り換えます、暫くお待ちください。宜しいでしょうか?」と。

 本日現在、いまだフェンスは取り換えられていません。もちろん修理もされていません。修理をトライして本当に骨組みが折れるか、本日現在までやった形跡もありません。

 

税金の使い方に対する国民の意識と公務員の姿勢

 これに対して私は、「公園課のご判断ですので、それに従うのみです。よろしくお願いします。」と当時は応対しました。何となく、役所とはこういうものなのかという消極的な印象を持ってしまったからです。

 そして、「市民から集めた税金を少しも無駄使いしない」というニュアンスが、話の中から私には窺えなかったことが、非常に心配になりました。公的立場の役人や公務員にパブリックサーバントとしての自覚が少なくなったら、その自治体や国の将来が危惧されるからです。

 税金からの出費である、もし少しでも税金を節約しようという感覚があれば、フェンスが本当に老朽化しているか自分の目で確認するであろうし、押し戻しをトライしてみて、それでも駄目なら交換の手順に入るはずです。業者からの報告のみで判断して大丈夫なのかを疑問に思うはずです。

 他方、我が家のすぐ2件隣りの住宅では、大雨が降るといつも大騒ぎ。浸水の危険ありです。公園や周囲の水が、天然の地形上全てあるマンホールに流れてしまいます。本来、この設計自体が現状にそぐわない。公園課に、10メートル先の大排水溝に流す工夫などいろいろアイデアを出しても、それは管轄が違う、県が関係することになるから等、縦割り行政を盾に未だに解決されていません。浸水を回避すべく、近隣の人が排水をしようとマンホールを開けてしまいます。万一、流水に巻き込まれて、子供でもそのマンホールに落ちたらと、大雨の降る日は本当に気が気でありません。公園のフェンスとはわけが違います。浸水どころか人命にも関係してきます。

 本日現在、公園のフェンスは曲がったままの状態です。パブリックサーバントのこの様な小さな判断の積み重ねが、市や国が大きな借金を抱えるか否かの分かれ道の一因になるのではないかと危惧します。片方の、排水マンホールも未解決のまま。

小さいことも大きなことも含めて、市民統治、国民統治と言いながら、公務員や役人が何を基準に仕事をしているのか心配になる時があります。私も含めて、市民自身が、もっと「私たちの税金」という自覚を持ち、タックス・ペイヤーとして常に行政をウォッチする義務もあるのではないかと思います。