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折々の言葉 / 時代認識

第199回 今の時代をどう見るか(4)

Posted on 2016-04-21

先週の続きです。

 

4. 新たなナショナリズムの勃興の時代とみます。

 これは本来宗教との絡みを見なければなりませんが、その分野には私は門外漢なので、今回はナショナリズム中心にのみ焦点を当てることをご理解ください。

 ナショナリズムは民族主義と密接不可分です。しかし、民族というものをどこまで遡るか、単なる歴史的文化的な共通点をもった出身地を意味するのか、なかなか理解し難いものです。最近は、政治の権力者による政治的指導力発揮の道具として、これが利用されており、ますます混沌としています。

 また最近の事象として、国家や民族を超えたネットワークが生まれつつある現象が現実に起きています。EUしかり、イスラム国しかりです。この兆候をナショナリズムとの関係ではどう見るか、裏でナショナリズムの発生を認識しつつ、その勃発を防ぐためにこのような集団になっているとみるか、ますます複雑になっています

 

フランス革命以前は、体をなしていない国家

 大昔は別として、1648年の「ウエストファリア条約」以後に主権国家体制が確立し、「名ばかりの国家」から実質を伴う国家が成立して、国民や民族の意識が高まったと理解します。しかも、この頃の大きな民族問題はほとんど中東欧の問題でした。この地域でナショナリズムの機運が現実の勃発までつながったのです。間違いが無いように沢山の年代を付記しましたが、ナショナリズムの関係で私が個人的に注目する年代は、1339年、1438年、1516年、1648年、1789年、1870年、1868年、1914年です。これをもう少し、詳細に述べると、

 1789年のフランス革命以前、ナショナリズムはどうだったか。ナショナリズムは、神聖ローマ帝国とハプスブルグ王朝の動きに焦点を置くと、それが勃興した経緯が非常に浮彫になります。

 1328年、フランスがカペー王朝を継続してから王位継承問題に発展し、イギリスとフランスの100年戦争(英仏戦争)(1339-1453年)後、各国で中央集権化が進みますが、中東欧を含む15世紀末頃の神聖ローマ帝国(ドイツ)は混とんとしていました。ヨーロッパの西から東まで国名があっても「名ばかりの国家」だったと言われています。

 

ハプスブルグ家の下での神聖ローマ帝国

 1273年、スイスの弱小領主のハプスブルグ家が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれましたが、領邦団が御しやすいとしてハプスブルグ家を選んだと言われるのは有名な話です。1438年以降もこの地域は沢山の領邦が分裂状態。ハプスブルグ家は世襲と結婚政策で、1516年のカール一世の時代になって、中欧のほとんどを手に入れました。選任時の領邦団の意に反して、瓢箪から駒でハプスブルグ家が力を持ってきました。

 ポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアに分割され、ウクライナ問題で注目を浴びているガリツィア地方は、この時オーストリア領となりました。

 

ウエストファリア条約で主権国家誕生、神聖ローマ帝国は有名無実化

 1618年から1648年の30年戦争が始まり,欧州は戦乱に明け暮れます。オーストリア・ハプスブルグ領のボヘミヤ地方のプロテスタントがカトリック教を強制されることに反対、1648年に有名な「ウエストファリア条約」でカルバン派(プロテスタント)の信仰が認められることになります。1517年のマルチン・ルターによる宗教改革以後、信仰の自由に関する初めての大きな事件です。

 ナショナリズの観点からみれば、これは歴史的な条約です。それぞれの国は内政権、外交権を有する主権国家となる糸口だからです。片や、この条約後、神聖ローマ帝国は有名無実化し、ドイツの内部は、主権を持つ領邦国家が分裂する状態になってしまいました。

 この頃を中世と近代の境と言う識者もいますが、この後、プロイセンが力をつけてきます。

 

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