園山征夫のビジネスコラム 園山征夫のビジネスコラム 園山征夫のビジネスコラム

折々の言葉 / 時代認識

第200回 今の時代をどう見るか(5)

Posted on 2016-04-28

先週からの続きです。

 

オーストリア・ハプスブルグ王朝の力

 オーストリア・ハプスブルグ家はウィーンを攻略、オスマントルコを破り、1699年ハンガリーを奪います。昨年、ヨーロッパに行った時、ウィーンの郊外の森の高台に、オスマントルコ軍との戦いでオーストリア軍を鼓舞して勝利に導いたとされる神父を祀った教会を訪問しました。ヨハネ・パウロ法王が訪問した記念のレリーフが壁面に飾られていたのをみましたが、当時のオスマントルコの侵攻は、ヨーロッパの国民のみならずカトリック教にとって宗教的にも大きな脅威だったことを物語ります。

 ウエストファリア条約で主権国家システムは確立されましたが、民族と言われるものは、1789年フランス革命を待たなければなりません。ナポレオン戦争にはじまる諸国民の革命によって民族主義が台頭してきたと、私は見ます。

 ナポレオンは、イギリスの征服を目論み、イギリスを海上封鎖する作戦をもってロシアに命令しましたが、ロシアはこれを拒否。怒り狂ったナポレオンは1812年ロシア遠征を試みたが、失敗して敗北。

 ナポレオン失脚後、オーストリア皇帝のフランツ・ヨーゼフ一世の時代になりました。このウィーン体制下で、地図上の区分けに集まった各国全権団、思惑ばかりでなかなか意見がまとまらない。パーティに明け暮れ「会議は踊る。されど進まず」と皮肉られた所以です。フランツ・ヨーゼフ一世はメンツのために各国代表団を接待したとのことです。この機にロシア皇帝はポーランド王を兼務しました。

 ナポレオン全盛期には西南ドイツ諸国も支配下に置いていた神聖ローマ帝国は1806年完全に滅亡してしまいます。片や、ハプスブルグ王朝のオーストリア帝国は現ハンガリーを含む最大の多民族国家となります。なんと10民族が属していた大帝国でした。

 ドイツは、1870年、普仏戦争に勝利してプロイセン国王をドイツの皇帝に戴く連邦国家、ドイツ帝国、または、帝政ドイツを成立させました。オーストリアやプロイセンをはじめ、旧神聖ローマ帝国を構成した35のドイツ諸侯国と4つの帝国自由都市をもって、オーストリア皇帝をその盟主とする新たな国家連合として「ドイツ連邦」を成立させたのです。1888年に即位したウイルヘルム2世はビスマルクを更迭し海軍を強化、帝国主義政策を着々と打ち出してきました。

 片や、ハンガリーは苦難の末に民族の独立を果たした国です。1000年頃にハンガリー王国が成立しました。スラブの国です。元々ハンガリーはマジャル人(ハンガリー)の意識を持っており、12世紀から13世紀にはハンガリー王国の領域を最大にし、スロバキア、クロアチアなども領域としました。16世紀にオーストリア・ハプスブルグ家の支配下になり、1867年のアウスグライヒによりオーストリア・ハンガリー帝国の一翼を担う王国に位置づけられるほどになりましたが、常に自らの民族の独立を指向していました。

 

ハプスブルグ帝国の衰え、ナショナリズムの激化

 ハプスブルグ家の力も衰えを示し始めます。

 ハプスブルグ家が支配していた地域の民族が19世紀ナショナリズムの中、中東欧各国で自治独立を求めていくことになります。

 1848年、フランスの2月革命の影響でハンガリーが蜂起、ある部分の自治を認められ、同じ1848年にはウィーンで3月革命が起きた契機に、ハンガリーのマジャル語の公用語化を主張したが、ロシアの援助で革命は鎮圧されました。二つの革命を総称して「諸国民の春」といいますが、ヨーロッパ各地で革命が起き、ウィーン体制の事実上の崩壊に突き進んでいきます。

 1868年、オーストリア・ハンガリー二重帝国となります。オーストリアがドイツ連邦の名手の座から追われた時です。その後、オーストリア・ハンガリーは第一次世界大戦で敗れ、1918年ハンガリーはやっと独立します。チェコ、ユーゴスラビアも独立します。

 ハプスブルグ帝国の衰えと共に中央アジアでも民族問題が発生してきました。

 1877-78年、露土戦争後、ルーマニア、セルビア、モンテネグロがトルコから独立。1908年、オーストリアがボスニアヘルツェゴビアを併合、これにスラブ民族であるセルビア人住民が反発し、1914年の第一次世界大戦になります。直接のきっかけはオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻がオーストリアのサラエボで暗殺されたことによるものです。

 16世紀以来「ヨーロッパの穀倉地帯」と知られていたウクライナ。13世紀モンゴル帝国に滅ぼされた後は独自の国家を持たず、諸公はリトアニア大公国やポーランド王国に属していました。その後、17世紀にはロシア帝国の支配下に入るが、1999年ソ連崩壊とともに独立。2010年には 親ロシアだったヤヌコビッチ大統領が行方不明。2014年、クリミヤをロシアが編入、グガンスク州を実効支配してしまいました。ガリツィア地方は元ヤゲウ王朝ポーランドの領土でしたが、オーストリア・ハンガリーのハプスブルグ領になり1918年ポーランド領となり、更に、第二次大戦でこの後、ソ連領ウクライナと統合された経緯があります。

 

汎スラブ対汎ゲルマンの対立

 第一次世界大戦はロシアをリーダーとする汎スラブ主義対ドイツ、オーストリアの汎ゲルマン主義の対立、ナショナリズムの対立とみます。

 ヨーロッパや世界の細分割をもくろんだドイツ・オーストリア・ブロックに第一次世界大戦の原因があると、ロシアでは相手を責め、一方そのロシア自体は、フランスやドイツを粉砕して、ロシアのバルト海沿岸市域とポーランド諸国、フランスのアフリカ植民地の一部を併合し、トルコや中近東に強力な地盤を築くという目論見であったとされており、他方、オーストリア・ハンガリーはバルカン諸国を支配しようとしたものとの見方もあるほどです。各国が牙をむき戦う古い帝国主義の時代です。

 この後も、ナショナリズムの対立は世界各地で起きました。民族が帝国主義の支配から脱出する形で起きた場合が多いのですが、最近の新しい帝国主義の下では武器自体が見えにくい経済力を推進した作戦で行われるので、そこにいる国民はナショナリズムの旗印がつかめにくい。気が付いた時には時すでに遅しで、民族の誇りが完全に封じ込められてしまう危険性を孕んでいます。

 全部で5回に渡り資本主義の変容を、帝国主義とナショナリズムの関係で述べてきました。特に、今が新たな資本主義の時代、新たな帝国主義の時代に入ってきたとの私の認識を共有していただいた方々には、過去の永い「戦争の時代」を今後如何に回避するか、日本国民が果たすべき役割は何かのヒントになれば幸いです。

 ありがとうございました。

 

Related Posts

 

Comment





Comment