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折々の言葉

第150回 新任マネージャーのコミュニケーション方法

Posted on 2015-04-09

 この春、全国の会社に新任のマネージャーが沢山誕生したことと思います。頑張ってください。本日は、人間関係について新任マネージャーのみなさんの参考になることを述べます。

 私は、以前、コミュニケーションを武器としたビジネスの経営を託されていました。いろいろな試行錯誤を重ねながら経営してきましたが、特に、人と人とのコミュニケーションの方法で気づくことが多くありました。その一部を、これまで三冊の本(『これからの課長の仕事』、『これからの社長の仕事』、『礼節と誠実は最強のリーダーシップです。』)に著わしました。

 その中で、共感の重要性についてふれています。本の内容を一部参照しながら、今回、新任のマネージャーが部下との対人関係を更に良く出来るよう「共感度を上げる」留意点について数点ふれます。コミュニケーション力をつけるためです。

 私の理解では、共感度とは、相手と同じ位置、同じ目線で、何かを感じる度合いのことです。共感度が増すと、「友の憂いに我は泣き、我が喜びに友は舞う」のレベルまで豊かな感性を築くことにつながるかもしれません。

 

1.人は自己中心であることの認識

 人間は、一般的には自分本位です。自分の考え方や行動パターンに類似する人に親近感を覚えます。それでも、ビジネス上での人間関係では、価値観や行動パターンの違う人々と上手く関係を築くことが必要となります。

 仮に上司にアサインされたとすると、部下を上手く導いて成長させる責任があります。皆、頭の中ではそのことを分かっています。しかし、実際の実施段階になると、ほとんどの方々が部下の指導にあたって、ある種の不安とジレンマを感じています。

 

2.愛情と怒りの矛盾

 一つ例を挙げます。部下指導の指導にあたり、共感と怒りとの関係です。

 部下を叱咤激励する部下がいました。部下の育成にあたり本人があまりに熱心なため、時に部下のできないことを、激しい怒りの言葉で責め立てる上司でした。仕事ですから緊張感を持ってやらなければならないのは当然です。従って、上司たる立場上、叱らなければならないこともあるでしょう。

 しかし状況を傍で見ていると、愛情極まったこの上司の怒りと反論したくても反論できない部下の不満が対立して指導自体が空転していることが多くあり、それまで築いた上司と部下との人間関係もぶち壊しになる危険性をはらむ状況となっていました。

 上司は育成の一環で叱っているつもりでも、怒られる部下の立場に立つと微妙な人間関係と映ります。誰にでもこのようなことはありますが、上司の側に共感度豊かな対応が不足しているのです。愛情豊かな上司に限って、それが変じてこのような叱り方をする場面が出てくるのを見ます。愛情の本気度が何かの事情で空転し、おかしいいことになるのです。

 ここで私が気づいたのは、それは人間として致し方ないことだとの考え方をまず持つことでした。

 人間の性(サガ)として、時に愛情が変なぶれ方をし、愛情と対極的位置にある自己中心的な上司の憎悪の姿が、現実にでてしまうこともあるのです。それは子供の育て方にも出てきます。この認識を念頭に部下に接することです。愛情が変じて怒りとなるシーンを出さないように、如何に自己コントロールするかです。上司として配慮すべき重要なことだと学びました。

 もし、このような努力でそれぞれの状況を上手く乗り越えられれば共感度が更に増し、上司と部下の人間関係は、意外にそれ以前よりうんと良くなるかもしれません。

 

3.人間関係と共感度

 日常、知らず知らずの内に共感度豊かな対応を実行している人も多いです。

 しかし、人間同士や家族との関係が疎になった現在、知識や権威が先行しがちです。特にビジネスの世界では、共感的なコミュニケーションを出来ている人が少なくなっているように感じます。すなわち、相手のことを慮る感性が、一般的に衰えているように思われます。人との関係で生きている我々は、人間関係を豊かにする方が生活の中での潤いを増すことになると考えますが如何でしょう。

 

4.感性、感じる心の持ち主

 経営を託されていた会社で、会社再建時に会社経営の骨格を決めました。その一つ、「社是」の中に、「一、行動と感性で、・・・」という文言を入れました。

 あるコミュニケーションビジネスで一番になりたい。更に、この分野で会社が特色を持って生息できるためには、感性豊かな社員の心、発想と行動が無ければ、無理だと思ったからです。社員の感性自体が会社再建と目標の達成のキーだと思ったからです。

 分析する力のある人材は沢山集まります。しかし、一番のポイントは、何かの事象に「ピンと感じる力」だと思います。これこそ会社にとって商売上重要なだけでなく、社員それぞれにとっても、自分のレベルを高め自己実現に近づくためにも極めて重要なことだと考えたのです。人間関係が上手くいくのみならず、ここから新しいビジネス的発想なども生まれることになるからです。

 

5.傾聴する姿勢、括らない

 傾聴ということも重要視していました。特に、新しくマネージャーに登用された人には、とにかく「まず、部下の話を聴きなさい」と、アドバイスしていました。頭でっかちで、相手のことなど無視してとにかく自分の主張をまくしたてる新任マネージャーにしたくなかったからです。共感度の無いマネージャーが以後幹部として成長するかどうかの行く末は、ほぼ見えていると思っていたからです。

 また、部下の話を遮って、「つまり、君の意見は・・・だよね」と話を括ることも戒めました。聴く耳を持てば、話す相手の発信する言葉、そのトーン、表情、目線などの全体から、相手があなたに本当は何を求めているかを実際に感じるはずです。

 実は、このあなたが感じたことが、相手にもすぐ察知されているのです。そのうち部下の警戒心が解け、同じ目線で話ができる良いコミュニケーションの場がつくれることにつながるのです。このような場合、聴くことに専念します。会話の中ですぐ自分の考えを述べることはタブーです。時間がかかっても、まず聴くことです。

 

6.聴く忍耐力

 このように聴くことは、忍耐がいることです。それでも、より良い人間関係を築くには最低限、必要なことです。新任のマネージャーのマネジメントの「イの一番」に、「相手の話を聴き、話を括らないこと」をアドバイスした背景がここにあります。

 部下が何かのトラブルに遭い悩んで相談に来た時に、「あなたの悩みはこうなんだよね。こうしたらいいよ。」と、上司からサラリと言われたら、それで部下の悩みが納得感を持って解決するのでしょうか。

 このような場合、一般的に本人自身がある回答を持って相談に来ています。上司に期待しているのは、解決の回答を前面に出すような話でなく、本人の悩みに共感してもらう何かであるはずです。従って、「そうなのか、だから・・・のことであなたは悩んでいるのだね。」と、穏やかな声の質で相手に寄り添う上司の姿勢が必要となります。頭でっかちな人がやる「それは、・・・だよ。・・・が悪いんだ」と、すぐ白黒つけるような場面を、部下は全く望んでいないことを理解し、感じるべきです。

 新任のマネージャー諸君、参考になったでしょうか。

 

 

第149回 トーマス・ピケティから学ぶ(2)

Posted on 2015-04-02

前回の続きです。

 

5.豊かさと経済成長

 ピケティ氏は経済成長だけで国民の豊かさが達成されるのか、あるいは、この限界があるかについて直接は触れてはいません。しかし私には、彼が格差の議論で間接的なメッセージを送っているとも受け取れます。

 グロス(粗)のGDPで測るかネット(純)のNNPを測定単位にするかは別にして、それがうんと低い国では、経済成長と国民の満足がある程度比例的な関係にあることは事実だと思います。低所得から抜け出してテレビや洗濯機を購入できるようになった時代に、生活の豊かさを感じたことを思い起こします。

 しかし、更に経済成長が達せられ先進国となった現在の日本では、GDPやNNPが増えたにも拘わらず、国民の生活の満足度は必ずしも上がっていないように思えて仕方ありません。すなわち、今の日本では、経済の成長と、生活の豊かさ、満足度との間にあまり相関は見られないように思います。 このような個人的な思いから眺めると、ピケティ氏から第三の主張が出てくるのも一部頷けます。高所得者への累進課税です。

 今のグロ-バル経済は、巨万の富を築いた一部の個人が一国の富を上回る富を持つまでになっています。あの豊かなアメリカでは、数パーセントの最も裕福層が国富の過半を持ち、大量の最下層の人々は国富の数パーセントしか持たないと言われているほどです。このような状況下では、アントレプレナーシップを害さない程度で、資本所得より労働所得への分配が必要になるかもしれません。

 これを解決するために、世界的な資本税としての累進課税を、彼は説いています。

 

6.ピケティ氏から学ぶ

 さて、我々は、ピケティ氏から何を学ぶかです。

a)当然の帰結として、その教訓は、成長率を上げてgが少しでもrに近づく策を官民挙げてやることです。

 具体的に何が出来るかです。先ほど述べた通り、日本のような先進国では、年率2%位の成長率を維持するのも大変ですが、それでも経済を成長させながら、ハイパーインフレにならないように、安定して成長できる仕組みを国全体で作らなければならないと考えます。国家戦略を、得意とする技術開発で世界をリードできるものにシフトする、これまでさほど真剣に取り組んでいなかった観光産業などへの取り組み、国の自然エネルギー資源をもっともっと有効に利用する先鞭をつけるなどです。gを高めることで、少しでも格差の縮小に努力すべきです。

b)働く人々の生活のスタイル、価値観を変えることも必要です。

 成長で豊かさを享受することの限界も、彼の本から明らかになったことを我々は知りました。だとすると、成長を構成する要素たる所得の伸び率、投資の量や消費の量を尺度とする現在の価値観を変える時かもしれません。

 所得や投資や消費の拡大量で測らない価値観です。それは、個々人がどのような生活を望むのかを、一度真剣に問い質すことにもなります。朝から晩まで仕事ずくめの生活で所得や消費の伸び率を競うことが、本当に皆が望むものなのかです。もし、それを望まないとすれば、その価値観を実現するために、働くことのスタイルや消費選択の幅を多くできる環境が日本全体に必要となります。仕事と余暇のバランスが叫ばれていますが、これも一つの流れです。所得や消費の量のみで測定せず、人々の生活の自由度と自らの能力や志を活かせるフレキシブルな環境づくりを、官民あげて取り組むべき時期ではないでしょうか。

c)ところで、国自体が滅んでは元も子もありません。

 翻って、新聞などで国の財務状況を見ると、厳しすぎる現実があります。株式市場で民間の成長率の高さが叫ばれていますが、日本政府はGDPの二倍以上の債務を抱えて国自体は借金地獄の状態とのことです。

 この状態でも、GDPの100%の金融資産と100%相当の金融以外の資産を持っているので、資産と負債は現在ほぼ釣り合っているから安心だという論者もいます。しかし、本当にその資産は安心できるものでしょうか。日本の保有する巨額の対外純資産、特に、金融資産の一つである外国の国債の価格の下落などで、いとも簡単に不均衡が生ずるとすれば、これは安心できない大きなリスクが内示していることになります。

 この状態を抜本的に解決するには、所得の低い層に負担をかけないある種の税など、国民に評判の悪いことでも早期に着手しないと、将来のB氏に代表される日本人が大変な生活を強いられることになるのではないかと思うのは、私だけでしょうか。

 

 

第148回 トーマス・ピケティから学ぶ(1)

Posted on 2015-03-26

 トーマス・ピケティ氏の本が話題になった直後、これを読もうと本屋さんで立ち読みしましたが、その分厚さに圧倒されました。かつてゼミで勉強のために読んだ(?)、読まされたケインズの通称「一般理論」よりも「厚そう!!」というのが第一印象でした。

 そこで購入は諦め、沢山出ているピケティ氏の本の解説書を数冊読むことに切り替えました。有り難いことに、どの本も大変分かりやすく書いてあり、私にとっての論点が明確になりました。

 

1.私なりの論点整理

 私なりに彼の主張を解釈すれば、論点の第一は、所得は「労働所得」と「資本所得」の和になり、この二つが平等に分配されないこと、第二は、このことがあるために、人々の間の格差が拡大していることと把握しました。上記の主張の帰結としての第三の論点、税に関する政策提言と整理されます。

 

2.格差拡大の比喩

 上記の第一の論点との関連で第二の論点の主張になりますが、資本収益率(r)と経済成長率(g)の関係です。ここで、rがgより大きくなると富の分配で格差が拡大すると説いています。

 ここで論理を勝手に個人のA氏とB氏の二人の関係に比喩的に引きなおしてみます。個人の投資からの収益率と個人の所得の伸び率の関係です。

 投資を出来る余裕のあるA氏と、余り資金に余裕がなく毎月の収入で家計をやりくりしているB氏がいると想定します。A氏が余裕資金を使ってこれから投資する儲けの率が、普通に働いて生活の糧を得ようとするB氏の所得の伸び率を上まわれば、何年も経過するうちに、A氏とB氏の二人の格差が拡大していくと把握すれば良いと考えました。

 rがgより大になるような条件下では、A氏の相続財産がB氏の生涯の労働で得た富より圧倒的に大きいものになると説いています。一旦生まれた資本は、生産高が増えるよりも急速に再生産していき、過去築いた財産が、働いて得る将来の収入を凌駕するまでに現在なっているとの主張です。

 現実に海外で大資産家になりそこに住んでいる私の知人を見ると、彼の資産が一定水準を超えたある段階以降その資産がどんどん拡大していったように、私には見えました。A氏のグループに属する人です。大きな資産が背景にあるので、彼は大胆な投資をしていました。リスクを冒すことが可能だったのでしょう。資産の運用をプロに任せて確実に資産を増やしていったようです。他方、上記のB氏は、少額の貯金から大きな投資リスクを冒す決断をまずできない、ましてや、料金を払ってまでプロの運用担当者を雇えません。A氏と大きな違いが出てきます。

 こうなると、A氏とB氏の貧富の差が更に拡大することになります。

 

3.資本と労働の関係

 マルクスの「資本論」にも書かれていた通り、過去、資本と労働は衝突してきた事実があります。マルクスの発想の原点はこれです。また、格差の程度こそ当時とは違うとしても、今もこの二つは現実に衝突しています。

 安倍首相が、企業で働く従業員の賃金のベースを上げるように経営者側に暗黙の圧力をかけ、実際に春闘で賃金のベースアップを労働者が勝ち取っているのを見ても、舞台の裏側で二つの衝突あることが推測できます。収入全体の分配、すなわち、収入の山分け方法を巡って、古来より必ずこの衝突が発生し、今も発生していることになります。

 ただ、不思議なことに今回の賃上げは、マルクスが主張する労働者が闘争で勝ち取ったというより、「鶴の一声」が経済団体に響き、資本家が余剰利潤の一部を労働者に分け与えたとの印象を持つのは、私一人でしょうか。

 いずれにしろ、交渉により資本所得の一部が労働所得に分け与えられたことになります。

 

4.何故、成長志向か

 ここで我々が思いをめぐらせなければならないのは、何故、世の中がこんなに経済成長を叫ぶのかです。「成長なくして、デフレ脱却なし」というスローガンめいたことが、時の政府からも叫ばれていた記憶があります。経済の成長でデフレを脱却したとしても、これと国民の豊かさがどうつながっていくのかの素朴な疑問には答えていません。

 ケインズは「一般理論」の中で、経済成長の結果、労働者の労働時間が大幅に減少して、労働者は減少した時間を人生にとってもっと大切なことに使うようになると考えていました。

 しかし、現実は違いました。技術革新の結果、企業の生産性が向上したのは事実ですが、これを生活の豊かさに結び付けるために、国民は何を強いられたでしょう。沢山の時間を使い、より沢山消費する生活パターンが、国民の価値観として定着している現実を、ケインズはどう説明するのでしょうか。

 ケインズには申し訳ないのですが、彼の論理を凌駕する経済学がその後出てきていない事情などから、皮肉なことに資本蓄積がある段階まで進みさらに経済が成長すると、B氏のような普通の労働者の労働時間がますます長くなり、以前より生活のゆとりが少なくなってきているように思えます。

 

 

 

第147回 孤高に生きる

Posted on 2015-03-19

「孤高の男」のあだ名

 以前経営を託されていた会社にいた時、ある記者から「孤高の男」と私にあだ名をつけられたことがありました。

 あるとき新聞記者諸氏からインタビューを受けた際に、会社の経営を引き受けるに至った経緯、親会社からの資金、人員などの援助をほとんど受けないで社員と共に必死に会社を建て直し、会社を成長軌道に乗せた戦略の背景となる哲学などについて質問を受け、それに対応した内容などから、一部の記者からそう呼ばれるようになったと推測しています。

 私は、付和雷同することが大嫌い、群れることが大嫌い、不正義が嫌い、内容を伴わない形式主義が大嫌いです。しかし、人と人とのつながりを非常に大切にし、正義や信義の保守のための日本的な人間関係を非常に大事にするという、一見矛盾しそうに見える両面を持っているのが、自分でも不思議です。

 

孤高に生きるとは

 考えてみると、この大切な人間関係を強固に出来るのは、逆説的ですが、私が孤高に生きるということの意味を、上述の経営の実体験で知っているからかもしれないと思います。

 ここに孤高に生きるとは、自らの主義や哲学を尊重し、むしろ、それらにプライドを持って生きる、その過程で、プロと称する人からは頭を下げてでも教えを乞い、自分の主義主張や哲学をさらにレベルアップすべく常に思考し、同時に、人との関係を重んじながら行動する信念の人の生き方を言うのではないかと、私は考えています。

 ここに定義する孤高を詰めていくと、孤独だからこそ人間同士の関係をいとおしく貴重なことに思う感覚を持つほどです。すなわち、孤独と人間同士の絆は両立し、その両方を持つ人が孤高の人であるという発想です。

 

最近の事件の背景の一部

 最近発生した、18才以下の若者が引き起こした痛ましい事件をニュースで見るたびに、この人たちは、本当に意味での孤独と人間関係の両方の重要性を分かっていないのではないかと感じます。今回の事件の背景には、いろいろな理由があったと推測しますが、彼らに孤独の中で自らを見つめなおす信念が欠如していることも、その背景にあるのでは?と感じます。

 18歳以下の若者に、それを求めるのは難があるとの指摘を受けるのは覚悟しています。しかし、今の世界の情勢の中で、果たしてそんなことが本当に胸を張って言えるでしょうか。私個人としては、彼らも普通に責任を負える世代だ、そういう人間いなってもらいたいと思います。

 

群がって、敵を捜す

 彼らは、信念が無いので群がる、群がった中のみで自分より弱い者をいじめて満足感をうるという、いわゆる孤独に耐える力の弱い人たちではないかと思うのです。

 いろいろな人との接点を、SNS等で半強制的に求めていく彼らの行動は、孤独に対する不安、恐れがあるからかもしれません。厳しい言い方ですが、孤独からの逃避です。

 実は、この孤独を恐れる心というのが、非常に危険だと考えます。集団に属さないと安心しないことから、他集団を排除する論理や、もっと大きく考えると、国単位での排他的ナショナリズムや民族主義の論理に陥りやすいからです。東南アジアの一部の国でこの現象が如実に表れている事実からも推し量られると思います。

 

国との関係で距離を置き、孤高に生きる国の関係

 国との関係の外交でも、遠くで互いに見守るという付き合い方が良いかもしれません。国民を統率する統治者が心の奥底のどこかでは良からぬことを考えているかもしれないとすれば、違った国の統率者同志が近づくと悪が出てくるものと思います。

 隣国の政治が絡むと関係は更に複雑になります。そこで、国との関係を大切にするのなら、逆にある程度距離を置くべきかもしれません。

 

結語

 個人も国家も孤高に立つことに弱くなった今、自分自身や国家の指導者も孤高の意味を考え、孤高をきちっと見つめる気持ちを持ち、それによって自分や国民が心の奥底で誰かに支えられていることを、是非忘れないでいただきたい。

 

 

大切なことを見極める努力

Posted on 2015-03-12

 3月2日、かつて一緒に仕事をした仲間が、福岡の地で「園山を囲む会」を盛大に催してくれました。深更まで皆で飲み語り、本当に楽しいひと時でした。

 この会の締めの私の「社長講話(?)」の内容を一部踏まえて、本日は私が大切にしている思考と行動パターンについてふれます。

 

1.集中して本質に近づく

 私は最近、物事に集中することを心がけています。

 以前は、「あらゆることが大事」と「何でもかんでも」口をはさんでいたため、エネルギーの分散でいろいろな失敗をすることもありました。

 しかし最近は、周辺の甘い言葉にも同じなくなりました。大切なことを見極め、それに集中することで、少し全うな生き方が出来るようになったと思っています。 集中するために、考える、考え抜くことを訓練しているのです。

 若い経営者にアドバイスを求められると、必ず言うことにしているのが、「しっかり考えてみなさい。」です。彼らが事業展開を多角化したいと相談にくる時にも、「何に着手するか、戦略の選択を誤るなよ。しっかり考え抜きなさい。」と助言しています。格好良いこと、やりやすいことなどに目が向き、戦略の選択を誤ることで事業機会の時間的ロスを少しでも回避させるためです。

 事業の発展のために、本当にやりたいこと、やらなければならないこと、すなわち本質に、作戦展開を絞ることが出来るように習慣づけするためです。

 

2.ノイズの除去

 この時に気をつけなければならないのは、周辺から入ってくる沢山の情報の中に潜むノイズです。私は、何かのノイズに左右されない生き方、たとえ孤高であっても、心の中ではプライドを持って豊かに生きることを旨として努力しています。

 情報の中のノイズについて、私は次の例をよく出します。

 海外に長期出張して帰宅すると、溜まった新聞を日付の逆の順に読むことにしています。多くの場合、意味がない記事が何と多いことかと、唖然とします。その刹那には価値が高い情報だと思っていても、実は以後に修正を余儀なくされる情報や自分にとっては無価値なもの、つまり「ノイズ」が多いのです。

 考えてみると、世の中の大半の情報が、実は誰かが誰かのためにした、ある種の操作情報かもしれません。ましてや自分のやりたいこと、やらねばならないこととは無関係なものが多いもので、自分の思考の軸の観点からすると、ノイズです。 それらの情報洪水の中から本質的なものを捜す努力をしなければなりません。

 難しそうに聞こえるかもしれませんが、誰もが、これをやっているつもりだと思います。ただ、トコトン「選ぶ」ことをやっていないだけです。情報の内容を疑ってかかるという正当な思考や行動をしていないということです。

 

3.捨てる=選ぶこと

 上に記載した、「選ぶ」ことは、その裏返しとして、何かを「捨てる」こととなります。

 限られた時間内で「あれもこれも」選択できないのが、一般の人の実態です。そこで、良さそうなことがあっても、更に良いことに絞るクセをつけなければなりません。

 このために、私が努力してやっていることは、頭の中で案件の自己採点をやることで案件の取捨選択の具体的評価方法です。

 まず自分に取って重要な軸を、次のa)~d)と勝手に決めています。

 a) 自分の主義に則しているか

 b) それをやることで、これまでの友人を多く失うことにならないか

 c) そのことを本当に継続して出来るか

 d) 金銭以外の物も含めてどんなベネフィットが自分にあるか、の4点。

 上から30点、25点、25点、20点とこれまた勝手に配点し、100点のうち何点になるかを瞬時に計算しています。

 これを、私が事業を経営する経営者で新規事業に着手したい時と仮定すると、

 a) 経営理念に則しているか

 b) それをやることで、従前の顧客を大量に失うことにならないか

 c) それを誠実に継続し続けられるか

 d) ベネフィット、利益を生む事業となるか、となり、同様な配点で計算することとなります。

 具体的な案件に直面した時、日を変えて評価していくのです。日によって配点がぶれる項目も現実には出てきますが、どこかで配点が落ち着きます。その時が判断の時点と、そこで最終評価します。

 私にとってさらに大事なことは、ある総合点数、90点以下の候補は全て捨てることです。下手な譲歩はしません。

 実際やってみるとすぐ分かりますが、この方法でやると、冒頭に述べた「あらゆることが大事」、「何でもかんでも」の呪縛から抜け出せます。経営者として焦る気持ちの整理にもなります。ほとんど90点以下の捨てる運命になり、本質的なことしか選択できないはずです。

 少し蛇足ですが、これに関して最近ある人からレビューを頼まれた「ふるさとの活性化」の企画案の中の附録として掲載されていたものを、真似たくない例として挙げさせていただきます。企画案を作成した方事態は非常に熱心で、企画案自体はリファインされてきたのが嬉しい限りです。

 ところが、附録として企画案に添付されていたある町の「ふるさと活性化方針」の内容には驚きました。役所が作成したものと思われます。

 あまりに教科書的というか、「あらゆることが大事」と住民全員を満足させようとしたのか真偽は不明ですが、結果としてどの住民も満足させられない施策の網羅に成り下がっていると、私には映ります。役所の立場上、仕方の無い部分があるにしても、あまりに「捨てる」こと、本質的なことに「絞る」ことが欠落している内容で、現実にはこの街からふるさとが活性化するには厳しいものに映るからです。

 

4.捨てる=選ぶことの私の体験

 「捨てる=選ぶ」プロセスの例として、私が実践した経営戦略策定の方法が参考になると幸いです。

 ある会社の経営を託された当初、サービスの価値を高めるため、サービス基準の設定や社員間のチームワークづくりなど会社として大切にしたい価値観を設定し、これを基盤としながら将来の魅力的なビジョンを掲げ、この実現に向けて毎期の年度計画を策定していくことにしました。ある程度の会社ならどの会社でもする方法です。

 しかし、これだけではサービスで差異化を図るという会社が、目指す価値を実行し社会に表明する意味はあっても、戦略の本質目標にはならないことを、私は知っていました。

 ビジョン自体は魅力的のものではあっても、その性格上、具体性に欠けており、これのみでは戦略の本質目標として社員全員を引っ張っていくには無理がありからです。他方、毎年の年度計画は数字という具体性はありますが、今度は社員にとって内容に魅力が乏しいものとなってしまいます。

 そこで、当時両方のことを考慮してやったことは、社員全員に魅力的で、かつ具体性があり、しかも測定可能な大きなものを目標に据えることにしました。

 「5年以内に、上場」というものでした。他のことは大半捨てて、この目標を本質的な戦略目標として、背水の陣を敷いて会社の作戦を展開することにしたのです。すなわち、考えて考えて、絞る、「捨てる」ことから選択した戦略目標でした。そしてそれは、会社の大きな発展につながりました。

 皆様の思考と行動のパターンの中で、捨てる=選ぶというプロセスを経て本質に近づくことに関して私の体験も含めて述べましたが、参考になれば幸いです。