


折々の言葉
経営者が成功するための条件
私は、経営者の成功にはいかに良い企業風土を造るかにかかっていることを体験的に知っています。
ここに言う良い企業風土とは、経営者のためにというより、どちらかと言えば企業集団に参加する社員のためにと考えられたものであることが適切です。
経営者一人のエンジンで会社を動かすより、多数の社員が「燃える集団」化してそれぞれの社員が自己の裁量で判断し行動するエンジンを、どれだけ多数もっている企業風土となっているかがキーと考えます。日本の経営者の皆様、頑張ってください。
経営者が成功するには、商製品の革新性は当然のこととして、経営者と社員との連帯感が不可欠です。
こうなるためには、経営者が社員の共感を呼べる経営哲学、経営動機を持たなければなりません。単純に金儲けをしたい、では社員の共感は得られません。その企業が、社会のためにどんな貢献ができるかを明確、かつ具体的に社員に伝えなければなりません。このメッセージには起業の動機に社会性ありやが問われます。これは経営理念や社是等の言葉で表現されることが多いのですが、ホームページ上や額に掲げられる文言の背後に、どのような真実があるのかが不可欠となります。
私は経営再建時に、「とにかく会社を倒産させないように」と歯を食いしばって頑張りました。その過程は別の項で述べる機会があると思いますが、社員が「燃える集団」と化していくのがわかりました。経営理念の内容と経営目標を社員と共有したことが負け犬根性の払拭につながり、あらゆる社員が営業をしていたことを思い起こします。
社長の私は当然として、間接部門、直接部門等関係なく10円の積み上げを行うためにあらゆる発想で稼ぐ行為をしました。また、多様性、ダイバーシティーを重視し、異なる発想を奨励してイノベーションにつなげました。そのことは業界と言われる中で旧態依然たるビジネスモデルを変えることにつながっていきました。
特に、新しいマネジメントのイノベーションを試み、成功しました。自らが知恵を絞って儲けるためにどうするのかのマネジメントを考えるために、垂直形から平面型、顧客接点多様型にマネジメントを革新したのです。当然、顧客を知ることから出発しなければなりません。本の中に出てくるマーケテイングの格好良い言葉などどうでも良い。要は、顧客が何を欲しているかを肌で感じ知恵を絞らなければなりません。
小グループ制を採ったことで、グループの長の柔軟な発想を呼び、素早い行動が出来ました。今でこそ当然の方策ですが、小グループ制のもとで、グループの経営をそのグループの長に任せ、マネジメントの自由度を増し、彼の裁量の下に経営できる中間層を育成しました。この規模のグループだと部下の隅から隅まで面倒を見られるので、血がかよった経営につながり、「わくわく元気」な組織になります。
経営者の「心の置き方」(2)
経営者の「心の置き方」に関する前回の続きです。
第三に、「まず形から」入る
私は経営者として、契約社員も含めて数万人の社員をかかえていました。いろいろな努力をしましたが、その社員個々人の心のうちまでは読めないことが多かったのが事実です。会社の経営理念の下に事業目標の実現を目指して皆が行動を起こしてくれることを、最後は祈るような気持ちになったこともあります。しかし、祈りや願望だけでは解決しません。
いろいろ考えて、ある時からこの願望をリアルに近づけるには経営体の仕組や仕掛けという形を整えることから始めました。社員が自由闊達に仕事ができる環境づくりの仕組みと仕掛けです。例えば、文字という形にした経営理念なら、これも1000回も唱えているうちに、おのずと自分の心に響くレベルに理解度が増してくることがわかりました。
併せて、経営者としての自分自身も外形を整える努力をしました。禅僧も外からの見え方を重視し分刻みの修業を行っていると聞きます。胸の内の悲しみや苦しみがあっても外形としては笑顔で対応する努力をしました。
特に、経営者という立場があります。悩んでいる顔を社員の前で出していたのでは、結果は良いはずがありません。「まず形から」入り、苦しみも何もなかった顔をして社員に悟られず、さりげなく日々の経営判断を続けていく「心の置き方」をするように努力をしていました。この部分だけをとれば経営は割に合わない仕事かもしれません。
第四に、「忙中閑ありのギアチェンジ」をする
私の経営を振り返ってみるに、極端に忙しく悩んでいた時に頭で考えた結論に、正しいものは少なかったように思います。どうも迷いのうちの結論は、どんな結論が出ても間違いが多いように思われます。そこでこのリスクを回避するために、ある時から同じ仕事を長く続けないよう、脳の違う部分を使うように仕向けることに努力をしました。「忙中閑ありのギアチェンジ」です。
身を忙しくしていると、仕事をしているように一見見えますが、必ずしもそうではないように思います。発想にキレが無く生産性も落ちていきます。そこで忙しい中にも必ず「遊び」を加える工夫をしていました。この方が脳の思考の自由度の幅も増すのではないでしょうか。
生産性は機械を使って合理化をすることだけではうまくいきません。要は、どうしたら人間に意欲的に働いてもらえるかを考えることが出発点ですが、この出発点を忘れないためにも、時にはギアチェンジして脳の自由度の幅を広げて置くことに留意してはどうでしょう。
第五に、最後は「自然の摂理」に従う
私が主張する「農耕型企業風土」づくりの農耕作業の過程の絵図の中に台風などの災害の絵を入れております。土を耕し、種をまき、水をやり、肥料を与え、草を抜き、秋の収穫を待ちわびていても、突然台風や水害などに被災するかもしれません。せっかく収穫を待ちわびながら努力をしていたにもかかわらず、自然の行動までコントロールできず、災害で一瞬にしてすべてを失うことがあります。
経営者として模範的な心の動きをしたとしても何が起きるか予測はできません。そのことを悲しんでも何かが生まれることは望めません。最後は、自然の摂理に従うしかありません。 それでも努力を惜しまない、これまた人生かなと思います。
経営者の「心の置き方」(1)
人間いろいろな生き方があります。また、同じ人間でも人生のいろいろなステージで本人の生き方や心の置き方を変化させる人もいます。
どの生き方が良い悪いというよりも、自分に適した生き方、特に「心の置き方」を探し求めていくのもこれまた人生、と最近考えています。蛇足ですが、私が関係している「ジョン万次郎から学ぶ会」の諸先輩理事の方々の生き方を垣間見るに、今も私自身「心の置き方」を学んでいる身です。
私がある会社の社長という仕事に没頭していた頃の私自身の「心の置き方」について、『これからの課長の仕事』(ネットスクール出版)の中で数年前一部披瀝したことがありますが、今回は、少し視点を変えて経営者としての「心の置き方」について述べてみます。
第一に、「目標実現にむけて仕事をする」心掛けを持つ
戦略をベースに事業目標や毎年度の計画を立ててもこれが必ずしも順調にいくとは限りません。私も約20年間の経営を通じてこのことを嫌というほど体験しました。
こういう場合、経営者の心の置き方がおかしくなってきます。どうしても他人を責めたり、感情的になります。感情が優先してしまい自分の感情やその時の気分を基準にして行動しやすく、結果として、施策の軸がブレはじめて会社という組織の方向性が全く不安定になり、社員も顧客も誰も幸せになりにくい環境が生まれてくるのです。私はこれを回避するために、できる限りその時の気分にとらわれない配慮をしました。
事業目標に向かって今やるべき仕事にどう取り組むかを最優先する「心の置き方」を持つ努力をしてきました。すなわち、事業目標の実現が遅れてしまうことがないよう、その時の気分や感情に害されず物事に対処できることに注力して、そのエネルギーを明日の糧にするよう心掛けました。こういう時こそ天秤の両側、感情と理性のうち理性の側に沢山の分銅を置く努力をしたのです。
第二に、「心の自由度」の幅を拡げる
事業の進展がはかばかしくなく、顧客とのトラブルなどが連発すると、そのことのみを考えて呪縛の落とし穴に落ちるリスクを秘めています。私自身そこから出られなくなったことがありました。
ある時期から、そうならないためにも心を開いた発想が必要とされることに気づきました。何か一つに心を固執しないで自由自在に変転できる心掛けに努力することです。逆に、手前味噌ですが、この心掛けをすることで全体の景色が良く見え、何か重大なことが発生しても逆に精神が統一し易いので適正な判断が出来た記憶を持ちます。
いつか読んだ宮本武蔵の『五輪書』でも敵に対峙した時、どこか一点に注意や目線を集中せず、相手の総体に万遍なく注意を払い、全体として穏やかな状態を作る工夫をすることについて述べられていたことを記憶しています。
このレベルまでは全くいきませんが、心構えとして「心の自由度」の幅の広さが経営者として必要だと考えています。このため経営者になるには禅の作法など自分に適した方法で「心の置き方」の鍛錬が必要になるかもしれません。
忘れがたい歌(2)
私にとって「忘れがたい歌」の続きです。
「旅の終わりに」
三つ目が、「旅の終わり」です。
冠二郎が歌っていますが、ある会社の経営を引き受け、その立て直しや戦略立案で悩みに悩んでいた頃知った曲です。私の慰労のために、ある会社の役員が私を飲みに誘ってくれました。私は自分で歌うのはからしきダメな方ですが、他人の歌を聴くのは大好きです。その役員が選んだ曲がこれでした。この曲が彼のカラオケの定番だったのです。
彼の歌う歌詞がカラオケ本のものと全く違い、胸にズキンと響くその歌詞が忘れがたいものでした。聞けば、その歌詞は戦争中にアジアの各地を転戦して戦った日本の兵隊が夜ともなると故国や故郷をしのんで歌ったものだとか。
私には経営再建の苦境の中、自分のことを歌っている曲に聞こえました。歌詞をメモしていただき今日もすべて記憶しているほど、「流れ流れて、落ち行く先は、北はシベリヤ、南はジャワと、何処の土地を墓所と定め、何処の土地の土と還らん」とその歌詞に感銘を受けました。
この会社で社員のために自分の命を捧げる、という心境と覚悟を鮮明にしたのがこの頃です。好きな歌詞です。この歌も私の人生のなかでひとつの転機だったかもしれません。
歌ではないのですが、忘れられない曲があります。
「1812 Overture」
『これからの課長の仕事』(ネットスクール出版)で記載のとおり、メンデルスゾーンの「讃歌」や「スコットランド」も私の好きな曲と紹介しましたが、ここでは想い出深い曲を挙げます。
「1812 Overture」です。チャイコフスキーの曲で、私がAFS生としてアメリカの高校に留学した時、ホストファミリーからクリスマスプレゼントとしていただいた一つがこのSPレコードで、今でも大切に保存しています。
『祝典序曲』ともいわれ、1812年ナポレオン率いるフランスはじめ同盟軍がチャイコフスキー自身の祖国ロシアを侵略、いわゆるナポレオンのロシア大遠征の情景をロシア側にたって描いたとされる歴史的序曲です。曲全体の流れの優雅さと大砲の音なども交え、なんとも言えない力強さがいろんな楽器で鮮やかに表現されているように感じます。この遠征でナポレオンは初めて大敗北、さらにその翌年の1813年にドイツのライプチヒでヨーロッパ同盟軍に敗北し、数年後にナポレオンが島流しになるターニングポイントの戦いです。「Overture」としたのはそれが理由だと思います。
この曲に出会ったのは16歳のころでした。異国で日本を代表するとの自負をもっていた自分と、恐れ多くもこの大作曲家の祖国ロシアを思う心情とをダブらせて考えていたかもしれません。日本人がほとんどいなかったこの地域で、当時の私の心の支えになった曲ともいえます。
「パリは燃えているか」
もう一つは、加古隆氏が作曲した「パリは燃えているか」です。
この曲は、私が経営を託された会社が、店頭公開を終え上場の準備をしていた頃、社内で作ったDVD(冒頭に紹介)の中の曲です。社員全員が「燃える集団」となり会社が大躍進を果たしていた頃に作ったものです。役員の齋藤君が会社の過去の歴史をまとめつつ社員の士気を鼓舞するために、いろいろな曲や映像をアレンジして造ったDVDの中にある曲の一つです。
さすが、ピアノの詩人と言われた加古氏の曲です。彼の作品の中で「黄昏のワルツ」も好きな曲の一つですが、この曲はなんとも想像力を喚起する曲で、す。私自身この曲を聞くと今でもこの頃の大躍進を引っ張ってくれた社員の顔、「燃える集団」を思い起こします。
皆さんにも「忘れがたい歌や曲」があると思いますが、本日は私の「閑話休題」として以上挙げさせていただきました。
忘れがたい歌(1)
この所ずっと経営に関することを書いてきましたが、ここらで「閑話休題」です。頭のスイッチを切り替えます。私の思い出の歌、曲のことについて書きます。
2013年の夏頃、あるTV番組で日本の昭和から平成を歩んだ時代背景とその時に流行った歌を比較して、歌のメッセージ性を説明していました。言われてみれば、聞く歌の中に「なるほど」と思えるメッセージが多く見受けられました。
私は安保闘争から全共闘時代に青春を謳歌してきた人間です。ある意味で「闘う」時代を生きた人間です。したがって、「神田川」など1970年代のフォークソングを今聴いてみると、音楽に何となく「闘う」という姿勢が失せており、個人的には少し残念に思う反面、こじんまりした安らぎを求める優しい内容に安らぎを覚え、時代変遷がもたらした変化をまざまざと感じます。
1995年頃、その少し前に流行った中島みゆきの「時代」の「まわるまわるよ時代はまわる・・」の歌をバックミュージックに加えて、自分が経営を任されていた会社の歴史を編集制作した社内限定版DVDを持っていますが、この頃も既にがむしゃらに「闘う」時代から明らかに安らぎの時代に変わってきたことがDVDに鮮明に表現されています。
人間でもそうですが、国も会社もある種の時代背景の中で生かされ、成長から成熟段階に向かっていることを、このような歌が間接的に表しているのではないかと思います。
「カスバの女」
歌のことで言えば、思い出深いものが沢山あります。その中でも自分にとって忘れがたいものをいくつか挙げます。
1983年ごろだったと思います。アメリカのテキサス州、確かサン・アントニオのある酒場です。何かの仕事でそこに行ったはずですが、その背景は覚えていません。
酒場というかレストランの奥にピアノが一台あり、そこでピアノを弾いている男性がいるのを垣間見ました。このレストランに入った時にはこの男性の存在を全く気に留めていませんでした。自分自身何か考え事をしており、いろいろな曲が弾かれたはずですが、それらも覚えていません。
ところが、ある曲が弾かれた時、「え?何故、このアメリカでこの曲が?」と不思議を通り越して頭の中が真っ白になってしまい、その曲のことしか記憶していません。流れてきた曲は「カスバの女」です。レストランの中にいた多数のアメリカ人には何も関係がない歌だと思います。でも、私は「アメリカでこの曲を聴くとは?」と感銘というか何故かキツネに騙された感じがして、食事を止めてこの曲に聞き入りました。
帰り際にはさらに驚くことがありました。よく見ると東洋人と思われる人がピアニストだったので、お礼のチップを差し上げようと話しかけたところ、なんとそのピアニストが作曲者本人であることが判明したのです。お名前は忘れました。「自分の曲で売れたのはこの一曲です。生活のために今アメリカでこのような仕事をしています。」という主旨の話を聞くに及んで、心の中で涙が止まりませんでした。
私も日本人として、外国人に負けずに「頑張らなくては」と妙に日本人魂が奮い立ったことを記憶しています。
「真珠採りのタンゴ」
もう一つは、「真珠採りのタンゴ」です。
1977年頃、フィリピンに仕事の関係で出張していた時のことです。本島、マニラのアラヤ地区からミンダナオ島のインドネシアに近いカガヤンデオロというジャングルの中の小さな町にもよく出向きました。
ある時契約交渉をマニラで行うため、ミンダナオのこの辺鄙な場所からマニラに戻り、ホテルの大きなロビーの横のレストランで、一人で食事をとっていると、男女の一群がロビーフロアーで優雅にタンゴを踊り始めました。特に、「真珠採りのタンゴ」の曲に合わせて踊る美しい姿は印象的でした。
ところが、少し時間が経ってから、突然周囲がざわつき始め、曲とダンスが終了してしまいました。 「スペインのフランコ総統が先ほど逝去された」と知るまでにしばらく時間がかかりました。時代は流れているとはいえ、かつての占領国の総統です。かつて自国を占領した国家の総統が亡くなった時の、現地の方々の思いは複雑だったはずです。
私にとっても、この曲を聴くと、かならずフランコ総統の逝去と、第二次世界大戦の残滓が消えうせた事実を鮮明に思い出す珍しい曲です。
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