折々の言葉
実のある戦略を樹てていますか?(1)
私自身、一番経営の中で得意とするところは経営戦略の策定です。
過去私が経営を任されていた会社の成長の要因の一つは的確な経営戦略を樹てたことだと自負しています。もちろんこの戦略はひとりでできるわけではありません。たくさんの社員をヒアリングなどで巻き込んで策定するのですが、戦略策定の過程で見つけたことがあります。
裏を返せば、本質から外れているにもかかわらず、戦略案を一般の人の目を引きやすく、かつ、もっともらしく見せるテクニックがあるので、経営者には、以下のポイントに留意して戦略のエセ部分を見抜く力が必要です。
1.戦略の基本構造を立体的に描く
基本的な構造項目すべてを網羅した教科書的な戦略なものになることを回避したいです。教科書的な戦略は一見綺麗で合理的に見えますが、構成が平面的になりやすく、実践にあたって実効性に疑問を持ちます。
- 顧客(現在顧客と潜在顧客)と社員(正社員、契約社員全て)を最上位に置き、
- 顧客の満足と社員の働きやすさと幸せを実現する仕組みや仕掛けに重点を置き、
- それを実現する組織や制度等の全体を組み立てる戦略構造にすれば良いのです。
すべてをなんとかしたいという思いはわかりますが、スピードが求められるので現実にはそれほどのリソースと期間はないはずです。
2.優先課題を設定する
先述のように顧客と社員を優先課題の第一義に設定し、置かれた現状が何故(Why)そうなるのかを冷静に分析し、具体策を策定して、一貫性をもってそれを一体的に実行することになります。
私は、その戦略を実行に移すことまでを含めて責任を持たなければ本物とは言えない、という考えを持っています。「私は戦略を作る人です」、「あなたがそれを実行する人です」と、戦略の中で実践プロセスを分離すると、単なる評論家的な戦略で責任感の欠如した形骸作品に成り下がってしまいかねないからです。
私の経験でも、この陥りやすい失敗について自分自身が立てた戦略経験で明確に分かります。私が過去に経営を託されていた会社でも、「第x次中期計画」などと称して、約3~5年ごとに戦略を策定していましたが、その中でも、最初に立案した戦略が基本構造は一番明確でした。姿形は少し幼稚ですが、顧客と社員のことを明確に最上位に置いて作を練っています。
会社が実質倒産の憂き目に瀕していたので、会社がどう生き延びようかと必死に顧客に焦点を当てで現状を分析し、生活も含めて社員を安心させるための将来像を本気で立案し、現実との乖離をそのあとの行動で埋めていったからです。
生きるか死ぬかの瀬戸際でしたので、顧客と社員のこと以外はある意味で捨てた戦略でした。
その後の中期の戦略も会社の成長・発展に貢献する道標になったことは事実ですが、「何となく、恰好をつけている」部分が多くなってきているのが自分では分かります。銀行や投資家の外部の目などいろいろなことを気にしてドレスアップしだしたからかも知れません。
皆さんは、こうならないようにご留意ください。
3.現実的な綺麗な姿を描く
戦略の見栄えを気にしすぎて、数年後の会社の絵姿をあまりに理想形にしすぎると、どこかの本からの切り抜きではないかと思われるようなものになりかねません。私の経験では現場の知恵から乖離した博識な社員のみに戦略を策定させると、よくあることです。
戦略目標として目指すものがあまりに非現実的な目標になっていても、絵姿は人目を魅きます。本の知識を基にした思い込みが前に出て、自分の会社の諸事情を見ずに、綺麗な絵姿のみを描いているものです。イメージ先行で、現状との乖離も、描けば何とかなるだろうという安易すぎる考え方からきている場合です。
イメージだけでは決してうまく展開できません。
あなたが急ぐその仕事は重要ですか?
新年を迎えるにあたって
新年あけましておめでとうございます。
国家の運営は政権が交代して経済や金融に新政権が力点を置いた施策を打ち出していることは、ビジネスに関係する一人として喜ばしい限りです。
読者の皆さん、新しい年になり気合が入っておられると思います。気合を入れれば入れるほど、ビジネスでは矛盾することを同時にやらなければならないこと、さらに、その時間が限られていることにお悩みかと思います。
例えば、顧客を増やしたい、顧客に対するサービスを強化したい。しかし、会社の負担が多くなる。社員の満足度を高めたいが、これも会社の負担が一時的に多くなる。それでも、矛盾したことをうまく調整して関係する皆をハッピーにしなければ、経営をしたことにならないのです。
私は、「三方一両得」と言って、顧客も社員も会社も皆が得をする解を見つけることが必要でと説いています。特に、皆さんのビジネスを実際に推進しているのは社員です。したがって、社員、社員の育成に力点を置いていくのが、皆さんのビジネスを成長・発展させる経営の近道かもしれません。
皆さん、本年もよいスタートをきってください。
そのために、まず仕事の仕方について述べることにします。なぜなら、この気持ちで1年を経営してもらいたいからです。ほとんどの仕事には、仕事の目的遂行のために「重要度」と「緊急性」の概念が関係しています。
にもかかわらず、事前にこの二つの概念を意識して仕事を遂行することが少ないのも事実です。緊急度については日常的に意識して判断せざるをえない場合が多いのですが、大半の方々が重要度を明確に意識して仕事をしていないのが現実ではないでしょうか。
仕事の重要度と信頼性の関係
重要度と緊急性の組み合わせで4つにカテゴリー分けできます。
①事業の目的達成のために重要度が高く、緊急性が高い仕事も理論的には多いのです。
経営上一番重要度が高い仕事として、私は
1.顧客の開拓と
2.顧客との良い関係の維持、
3.社員の働きやすさの環境造りにおいています。
この3点は独立してあるのでなく、統一的に完結する経営姿勢、経営哲学として私は重視しています。
自社の商品を買ってくれる顧客の具体的な顔を社員と一緒に見たいのです。ニッチな分野の個客とでもいえる人々です。緊急事態が多くて、日常の判断からこの視点が意外に失念されやすいのです。
仮に、顧客に関わることや重要度が高く緊急度が高い状態が毎日発生しているとしたら、このこと自体がその企業の存続のためにまず問題ではないでしょうか。
皆様の会社、大丈夫ですか?その会社に根源的課題があるか、もう少し早く必要な手を打っていなかったが故に大きな課題に今直面しているケースかもしれません。でも、これを克服しない限り、その企業の継続的発展は厳しいと見ざるを得ません。
②重要度が高い仕事は、意外に緊急度が低い場合が多いのです。
すなわち、会社の将来の発展のために極めて重要な仕事は、「今すぐ実行」という意味での緊急性は少ない仕事であるのが一般的です。例として、人材の強化です。
これはどの会社にとっても重要な仕事です。しかし、今日緊急にこれを実行できなくても、明日実行することができるのです。健全に時間をかける場合は別として、人材の強化が重要性が高いにもかかわらず、明日、その翌日と一日伸ばしとなり、結局、実行に移さないまま、その年度に積み残し翌年に繰り越されることが多いことに留意すべきです。会社としての大きな機会ロスです。
③重要度が低くて緊急性が低い仕事に属するルーチン的な仕事をしている人には、何か新しいことにチャレンジしなくてもこれで一日が終わってしまうことが問題です。
これが常態化すると、会社としてはゆゆしきことですが、現実には、いろいろな会社でこれに似た事態が発生しているかもしれません。上司がこのパターンを意識的に排除する経営手段を講じていない場合です。会社が重要視する方向に社員のベクトルを合わせる努力を怠っていると、このような現象が現れます。
④重要度が低いが緊急性の高い仕事は理論的にはありえますが、ビジネス的には意味が薄いパターンです。このパターンで業務を継続的に続けることはまず不可能です。
重要性に力点を置いた仕事のやり方を認識
重要度と緊急性の4パターン分類で経営上一番問題なのは、ほとんどの仕事が緊急性に引っ張られやすいことです。経営層が計画的に段取りよく仕事をしていれば、本来緊急性に引っ張られる確率が少ないにもかかわらず、経営層の計画性の無さからこのような事態が発生します。
また、緊急性が高いが故に、会社の中の大騒ぎ事態を救う救世主が現われます。この時点では本源的解決にはなっていないにもかかわらず事態は一応落ち着き、急場を凌ぐことに貢献したその人が評価を高めやすいことになります。
自分の仕事の点検
皆さんの日常の仕事を一度、この4パターン分類で振り返ってみてください。緊急度の高い仕事が多く発生するのは、本人か上司がこれまで重要度の高い仕事に対応していないことが原因です。他の部門や人々にも大きく影響を及ぼしてしていることを認識すべきです。
私は、1年間にその会社でなすべきことをリストアップして、その中から重要度の高いものを選択することにしています。逆に、重要度の高くないことには、首を突っ込まないことにして、不要と思うことを捨てています。
このように重要度を峻別することは、仕事のやりかたの反省にもつながると考えます。ぜひ、このことを「考える」習慣をつけたいものです。
鴨長明(方丈記)と吉田兼好(徒然草)の生き方、人間(2)
二人の共通点
鴨長明と吉田兼好の晩年の生き方の続きです。二人には、現実に生きる人間の観察において共通点が見られます。
鴨長明のことは先日このコラムに書きましたので、今回は吉田兼好に焦点を当て二人の共通点を見てみます。
第一に、長明は平安時代を見限り鎌倉時代に期待しましたが期待外れ。兼好は鎌倉時代の終わりを予見する眼力を持っていたと思いますが、かと言って室町時代に期待したわけでもなさそうです。いずれにしろ、二人とも「世捨人」の立場で随筆を著していますが、厭世者の彼らの書物など、当時は誰にも興味を持たれなかったと想像します。
第二に、二人とも世の無常感の権化です。「徒然草」の全段に兼好の無常観が表現されています。
衝撃的な記載があります。「恋しき物、枯れたる葵」の部分です。
葵は、私が過去フェイスブック上にこの花の写真を載せたほど私も大好きな花のひとつで、春から夏にかけて見かけます。
私も花が大好きです。庭の花、林の中の花や雑草も大好きです。しかし、枯れているよりやっぱり生きている花の方が好きです。
スッとまっすぐ生育し上の方から花が枯れていくのが通例で、葵の花が枯れると茎のみ棒状になります。この枯れ木(多分、賀茂祭が終わったあとの葵かも)の棒を見て「恋しき物」と思う兼好の心境。このことを、私も頭の中では理解できますが、正直な気持ちとしては、少し引けてしまうところがあります。まだその域には到達していないからか、私はまだ本当の無常感を共有出来るレベルになっていません。
枯れた葵を見て、長明と兼好は多分同じ心境になるのでしょう。花が咲き枯れる。人間に例えれば、始まりがあり、終わりがあるという一生を、一瞬のうたかたと見る無常感いっぱいの二人の観点からみれば、葵の花も枯れた状態が恋しい物となるのは必然かもしれません。
だれでも抱く人間の揺らぎ
第三に、二人とも生身の人間の揺らぐ悩みを抱いて、それぞれの随筆を残しているように思えます。「世捨人」とは言いますが、現実の世を全て捨てたのではなく、俗世間の煩わしさから逃れ現実から距離を置いたのではないかと思います。距離を置きながらも本当は、人間や世間の営みに常に配慮していたのではないでしょうか?
その証拠の一つに兼好は、「なき人の手ならひ、絵かきすさびたる見出てたるこそ、ただその折の心地すれ」と、亡くなった人の書いた文字や慰み半分の絵を見つけると生前の時期に戻ったような心地がすると言っています。
このように、兼好は現実の人の営みなどにたくさんの焦点を与えており、我々が想像するような「世捨人」ではなかったのかもしれません。世捨て人の形を取りながらも、朝廷や武家の礼儀など、有職故実を教えて生計の糧とせざるを得なかった彼の心の葛藤と矛盾の中でゆらぎ、苦悩したものと思われます。
書いた文字や絵などは全て無常で、その無常を主張しながらもそれこそが逆に人間の生きる姿を生々しく浮き彫りにし、人間の生きる力の大切さを逆説的に言っているようにも私には受け取れます。
また、鴨長明も「方丈記」で執着を捨てることを良しと言っていますが、完全に悟りきってはいないようにもみえます。方丈でのこのスタイルの生活が良いということ自体も捨てたいと言いながらも、心のゆらぎが見える感じを受けます。ここに高僧でなく生身の人間の迷いが「方丈記」の中からも読み取れます。ゆらぐこと自体がむしろ自然なのではないでしょうか。
なるが故に私にとっては、彼も非常に魅力的な人物です。
私への示唆
「つれづれなるままに、日くらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を」という「徒然草」の中序段での吉田兼好の心境は、私には、「人間普通に生きなさい」と言っているように聞こえます。
鴨長明(方丈記)と吉田兼好(徒然草)の生き方、人間(1)
前回、「方丈記」のことを書きました。
「方丈記」を読んだ後、以前読んだ「徒然草」をこの1ヶ月読み直し、面白い印象を持ちました。
吉田兼好は1283年、鴨長明よりも約100年遅く生まれています。
鴨長明は鎌倉時代に入った頃に晩年を迎えたのに対して、吉田兼好は室町時代初期に晩年を迎えています。しかし、歴史の長い尺度でみるとほぼ同時代の人とみなしても良いのではないでしょうか。
出自や若い頃の人生は対照的ですが、二人は日本の中世の動乱と不安の時代に生き、世の中の見方や人間に対する興味などに、ある種の共通点を持っているのではないかと思います。もちろん私見ですが、このことが非常に興味深いところです。
普通の育ちとエリート
まず、二人が歩んだ人生背景を見てみます。
鴨長明は1155年頃に生まれ多分1216年頃に没しています。平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた人です。
50歳で出家し、54歳で方丈の小屋に移り住んで1212年に「方丈記」を著しています。維摩経によれば、方丈とは小さく狭くても何人でも入れる建物のことを意味しているようでコンパクトな庵です。
長明は人生のほとんどを失業状態で過ごし、現代流に言えば経済的には貧困の状態(このことが悪いという意味ではない)にあったと想像します。
他方、吉田兼好は現代流に言えばエリートの家系に1283年に生まれ、1352年に没しています。
吉田神社の祠官の三男で大臣堀川氏の家臣でした。長男は叡山大僧正(今流では大学学長)、次男は六波羅探題の長(今流では警視庁総監)と言われているエリート一族で、この点では鴨長明と対照的です。
時の天皇、後二条天皇に出仕し、天皇の皇子の親王が幼少の時代に、大臣堀川氏の指示により皇子が将来天皇というリーダーになるための「天皇になる心得」的君主論として、徒然草を最初書き始めています。官位と家の繁栄を期して熱心に仕えましたが、残念ながら天皇が27歳で亡くなり政権が変わったことによって教える相手がいなくなってしまい、現代流に言えばドロップアウトしたのです。
彼も30歳で出家をしています。出家といっても仙人になるのではなく、当時は特権的な境遇の人もいたようです。今の時代のビジネス世界を想定して例えれば、本社から30分くらいで行ける京都の街に研究所的な庵を造り、そこの長として遇された感じと解すれば良いかと思います。
ドロップアウトと出家の身
前半の人生環境は鴨長明のそれとはとは雲泥の差ですが、吉田兼好の歩んだ中年、晩年の人生は鴨長明と類似しているのが深く興味を引きます。「徒然草」の後半の執筆が前半と趣が違い、距離を置いて世の中を観察する随筆になっていくのはこの人生背景があるからです。
すなわち、晩年の二人には世の中とそこで生きる人間の観察で共通点が見られます。
方丈記―今流の読み方(2)
すべてを等価で見る見方
第二に私は、彼が伝統文化に僻み感を味わいながら、しかし、伝統にしがみつく朝廷・貴族と苦しんでいる一般人民をほとんど等価で見ていることにも注目しています。無常観がそうさせたのかもしれません。
源氏物語の伝統を引き継ぎ、和歌などに代表される現実と遊離した伝統文化を必死にささえる宮廷や朝廷などの閉鎖的文化。驚きは、この伝統を哀れみの目で見ながらも為政者の被害に遭い今晩の飯に困る一般人民と全く等価に見ていることです。
京都の伝統文化の息苦しさを味わわなくて済む一般人民の方に若干寄り添った見方をしながらも、両者をある種等価に見ざるを得なかったのか、世捨て人の見方が参考になります。
今の時代、一生懸命に生きる姿勢の中で、一部諦めの境地からかすべてのことを斜めに構えて見る姿勢と比較して、良くも悪しくもすべてを等価で見る彼の見方も参考になります。
自由な境地と裸の自分
第三に、自由な境地を活かして裸の自分を信ずる力強さが特徴的であることです。京都という世の中を捨てたからかどうかわかりませんが、ある種の居直り、開き直り的なところがあり、それが彼の強さになっているところが参考になります。
彼は晩年、京都から鎌倉に上京して、時の将軍、藤原実朝に何度も会っていたと言われています。平安時代から、関東武士の新しい時代理念を持った鎌倉時代に時が移り、次の新しい時代に期待したのかもしれませんが、この鎌倉時代も和歌から刀の時代になっただけで、彼が期待したような時代ではなかったようです。彼は歴史が変遷しながら崩壊していく姿を見てしまいます。
このことがあったからか、姿こそ僧侶の彼が方丈記の中に心のどこかで浮世の欲望を残しつつ、阿弥陀如来にも完全には期待していない姿を披瀝しています。ある種の開き直りにも見えますが自由な境地で、裸の自分を信ずる力強さを垣間見る感じがします。また、世捨て人とは言え世俗的なところも見え、なんとなく近寄ってみたくなる人物に見えませんか?
最後に凄みを持って一言
でも鴨長明の人間としての凄さが伝わるのは、方丈記の最後の部分です。これはぜひ参考にしたいものです。
「時に,建歴のふたとせ、やよひのつごもりごろ、桑門の蓮胤、外山の庵にて、これをしるす」と、バサッと終わってしまいます。桑門とは僧侶のことで蓮胤とは鴨長明の法名です。
この終わり方に、彼の人間としての凄さが現れています。ほとんど無職の一生。でも知識人として時代の変わり目、伝統の怖さと庶民の抵抗の弱さを明確にわかっている。わかった上で時代に溺れて時代に流されている人々にひとこと言いたいという彼の心境なのだと、私はみます。
この最後の一行で、全体を読んだ人に大きな沈黙が生まれます。晩年彼が住んだ方丈の四畳半の小さな庵の中で筆を取る彼の姿が見えてくる感じがします。
追伸:2012年10月、頭の毛の一部が瑠璃色をしたゲラの一群が、目の前で地上に落ちた種子を啄む姿を見ながら山の中でこの本を読み直し、鴨長明の「方丈記」に新たな印象を持ちました。




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